インレー湖の思い出 (1)
インレー湖には2004年2月に行った。湖上のホテルに2泊して、奥インレー湖まで巡って、3泊目がタウンジー、そこから2000基のパゴダが一箇所にひしめくカクー遺跡を見に行った。4泊目はカローに行き6時間のトレッキングでパラウン族の長屋のような家屋で休憩を取ったりした。
初めてインレー湖を訪れたのは1997年だったと思う。5月の休みのときはバリ島に行っていたので、多分8月の休みに来たと思う。今思うと雨季だが1日パラパラと雨が短時間降っただけだった。その時、水牛を引きながら帰っていた少年が、雨が降りだすと水牛にまたがって濡れながら帰ってゆく、そのゆったりとした光景をぼんやり眺めていて、このミャンマーに住むことを決心したような気がする。翌年1998年からヤンゴンに住みだしている。
8年前のインレー湖は、まだ湖上にそれほどホテルが建ってなくて、ニァゥンシュエで1番大きなのフーピンホテルに宿泊した。オーナーの2人が、相撲取りのように大きくて、いまだ彼等のように大きな人をミャンマーで見たことが無い。その名物のオーナー2名とも亡くなったそうで、G&Gのオフィスにも、後を受け継いだ番頭さんやマネージャー男ばかり4名が、この頃の多数オープンした新しい湖上ホテルの攻勢に危機感を燃やして挨拶に来ていた。
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インレー湖の漁師 |
当時フーピンホテルのオーナーは、この地方一の金持ちで、精米や農産物なども一手に扱っていて、エンジン付ボートもこのホテルの所有が大部分であったと思う。今は湖上を行きかう小船は足漕ぎではなくて、ほとんどエンジンボートである。8年前にも、エンジンに使う油が湖面に少しもれていたり、将来このすばらしい自然が何処まで保てるのが危惧していたが、これだけエンジンボートが増えれば、環境汚染は密かに毎日進んでいることと思う。
実際、蓮布(蓮の茎から出る繊維で織る布地で、世界でもこのインレー湖畔しか残っていないと聞いた)の工房の女主人が、年々蓮が減少傾向にあると言っていた。
湖(イン)の人(ダー)インダー族の船頭さん曰く、「カチン州にあるインドージ湖と違い、インレー湖は水の流れがあるから、汚れも流されて湖はいつもきれいなんですよ」と言っていた。その話を信じたい。
さて、最近人気が高まってきたインレー湖だが、山々に抱かれた湖に映る夕日を眺めていただけで、小船の上で涙が出てきたという知人もいたが、感性が鈍い私でも、なにやらここは別世界のような気がした。
しかし、8年前も去年来た時も、湖上はやたら寒くてたまらなかった。8年前には湖上にあるお土産屋で、あまりの寒さにシャンの民族衣装の上着を買ったし、去年行った時は上着は用意していたが、いつもはきなれているサンダルだったので足だけが寒い、仕方が無いのでシャンバックに足を突っ込んで船上の人となった。
話は初めて来た8年前に戻そう。フーピンホテル、取り立てて素敵なホテルではないし、何も無いわりには高いとガイドブックにも書いてある。朝起きるとチュンチュンと可愛らしい小鳥の鳴き声、2日目にはそれはエインミャウといわれるヤモリだと教えられた。夜は衛星放送で香港のスターテレビが見れた。そこで三宅一生のファッションショーを見た。世の中がすでに国境を越えて動き出しているという現実を、インレー湖のホテルで感じていた。
2日目の朝、車を借りてミャンマー1の洞窟寺院があるピンダヤーに行くことにした。前日ガイドのおじさん(彼とは同じタムエ地区に住んでいるので、未だに交流がある)と2名だけでボート借りていたら、カナダ人だという男が、いきなり乗せてくれないかと頼まれた。
旅は道ずれと思い乗せてあげて話をすると、韓国のキリスト教系の女子高で英語を教えていて、東南アジアを貧乏旅行していると言っていた。私は海外旅行に行き出したのが30歳も半ばになっていたので、パッカーのような旅をしたことが無かったのでイロイロ彼と話していると、3ドルの宿に泊まっているというので、世の中にそんな安い部屋があるとはその時は俄かに信じられなかったが、今はさすがに安いゲストハウスなどが、バガンにもインレー湖にも数々あることは知っている。(ピーという町で、初めて3ドルの安宿に泊まったことがあるが、トイレは今でも思い出したくない思い出だ)
ピンダヤーの洞窟にもそのカナダ人も同行した。次の日に軍の高官が視察に来るとかで、緋毛氈が洞窟内に敷かれていた。ピンウールインやカロー、パーアンなどにも洞窟寺院はあるが、やはりピンダヤーの仏像の数、規模に勝るものは無いように思う。
去年のインレー湖では湖上のホテルに泊まった。2月だったか水が冷たい。シャワーはお湯が出るはずだが出ない。震えながら水を浴びた。2日目に前年から一般人でも許可なしで行けるようななった奥インレー湖に行ってみた。パオー人のガイド(15ドル)を必ずつけないと入域(料金6ドル)できない。合計21ドル払ってエンジンボートで水路を南下すること2時間、全く手付かずの自然を満喫することが出来る。
パオー人のガイドはホテルのスタッフで、やたらに睫毛が長い。しかし、次の日タウンジーからカクーに一緒に行ったパオー人は、細い目に団子のような顔をしていたので、どっちがパオー人の典型なのか分からない。このガイドの若者、なかなか音楽的センスもあるようで夜ディナーの席で、スタッフが踊ったり歌ったり演芸ショーを見せてくれた時も、さまざまな楽器を演奏していた。
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奥インレーの崩れかけた寺院 |
奥インレーは、今1押しで行くことを薦めている。観光客に開かれたばかりのせいか、私が行ったときは2,3人の欧米人と会っただけで観光客とはほとんど出会わなかった。もちろん物売りも全くいなかった。朽ち果てたパゴダや仏像が何気なく置かれていて、不心得の者がいたらすぐに持ってゆける状態である。また、パゴダの形や寝釈迦仏なども、シャンのものはバガンやヤンゴンで見るビルマ族の仏像に比べてどこか愛らしい。古いパゴダから木が生えて枝を伸ばしているものもたくさん見られた。
奥インレーの旅は、サカーと言う町までの片道2時間。これより先雨季にはインレー湖の3分の2くらいの大きさの湖になるらしいが、地図を見ても載っていない。サカーは、シャン人とパオー人の町。英国領だった時代から1962年まで、33の藩がシャン州におかれていて、その中の1つの藩主(ソーボア)が治めていた町がサカーである。
「消え去った世界」ネル・アダムス著には、シャン州の藩の王女として生まれた筆者の青春が、美しい文章でつづられている。英国時代 直接的には藩主が藩を治め、アダムス女史の兄弟はすべて全寮制の寄宿舎で英語の教育を受けていたそうだ。今現在英国在住の筆者は30数年間も故郷には戻っていない。現政権とシャン族の複雑な関係も合わせて読まれると、シャン州の歴史の1ページが少しだけ理解できると思う。
《続く》
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by 木村健一 |
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2005年 11月15日 カテイン祭りの日に 記 |
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