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メイティーラの思い出

 メイティーラは想像していたよりも、都会で街の真中をミャンマー1の幹線道路が通っているので、トラックやバス等の交通量も多く、テレビのCMで見た銀行のほとんどが街中にあったの少しびっくりした。第2次大戦ビルマ戦線最後の激戦地という面影は今はない。 大きな湖が広がり、街は活気に満ちている。さて、ずっと行きたかった処である。3年間行く事をためらっていた場所で、今回は意を決して行ったと書くと大げさだろうか?

 メイティーラへいざ出発 
 パガンまで飛行機で行って、もうパガンは6,7回行っているので、パゴダ巡りもやらない。知人とビール飲みながら、メイティーラへの行き方を聞く。翌日シュエズィゴンパゴダの横手にあるバスステーションから確か、当時(2002年4月)1200ksだったと思う。完全に1人旅で、道中5,6人の女の子のグループとずっと一緒だった。そのグループに1人痩せた無口の男がいて、その男が私の隣りなんだけど、たまたま女の子の1人が、何度か泊まった事のあるゲストハウスの娘さんだったので、その無口な男と私に、ぶどうやお菓子をくれたりして、ドンドンバスは進んでいっていた。途中休憩の店で軽い食事を取っている時に、気になっていたのだが、思い切ってそのゲストハウスの娘さんに聞いてみた。「私の隣りに座っている人は、男?女?」手首などが細くなよなよしている、女っぽい男か、男っぽい女かのどちらかである。結果はヤウカシャー(おなべさん)だった。5,6人ヤンゴンでも見かけたことがある。この国はオカマさんやおなべさんに対しても、別に差別もなく優しくおおらかな国だ。

メイティーラ
お地蔵さんを見上げる

 いよいよメイティーラに着いた。 メイティーラでは、日本でミャンマー語を習った女学生Rさん(今は日本の大学で講師として活躍中)のお母さんに会って、ヤンゴンで何度も会っていたお母さんなので、近所にあるナガヨンパゴダに案内してもらう。 日本人慰霊団が寄附したお地蔵さんが高い台座に上で困ったような顔をして立っている。普通お地蔵さんと言うのは村はずれ等にあって、人の目線より下にあるものなので、見上げるお地蔵さんに手を合わせる。お母さんの家で食事をご馳走されて、湖の中にあるパゴダに、ながい桟橋のような橋を伝ってお参りに行く。普通パゴダの前には、捕まえてきた鳥を籠に入れて(タイでもよく見かける。日本語がやたら上手かったりする)お金を払って、功徳の為鳥を放してやる物だが、ここではビニール袋に入れた魚を功徳のために放すらしい。夜は別の一家に会う予定になっていたのでホテルに戻り連絡を待っていた。

 日本で亡くなったK君の事
 ミャンマーに行く前にRさんからミャンマー語を、週に1回習っていた。K君はRさんの従兄弟。K君は福岡市内の日本語学校に通っていたので、彼からも何度かミャンマー語を教えてもらっていたし、唐津城や阿蘇山にうちの店でバイトしていた中国人なども誘って、ドライブ等にも行った事もあった。私が、ミャンマーに来て1年(他のコーナーで書いている)すごい頭痛で静養の為福岡に戻っている時、偶然一度街で会った事がある。その何日か後Rさんが泣きながら電話されてきて、宮崎県にある河でK君が水死したと言うのだ。声も出ないくらい驚いた。

 頭痛も癒えてヤンゴンに戻って、直ぐにでもメイティーラのK君の実家に行きたいと思い、まずは、ヤンゴンにやってきたRさんのお母さんに相談すると、とにかく今行かないで欲しいとの事だった。日本人が行くとkくん母親が尋常ないくらい泣かれるそうで、今はそっとして置いてくれと言われた。それで今回の旅行はその一家に会う事が一つの目的だった。K君の父親はこの地方の名士で、有名なお医者さんである。以前k君から写真を見せていただいたが、両親も映画スターのような美男美女で、5人の息子達も全員顔立ちがいい。K君も驚くほどハンサムな青年だった。まずスズキの新車で迎えに来られて、一番下の弟さんと父親だけ90%完成している新築の家に案内され、家の前が側溝の工事中とかで、まだ引越しできないとか、家の中を案内されて、ベランダで「英語は出来ますか?英語で話したいのですが、、」と言われた。英国のケンブリッジ大学や東大にも半年間留学された事があるその父親は、全く亡くなったK君の話題に触れない、こちらからK君の事を言っても、「そうですか」の一言で後が続かない。スズキの新車は日本では誰でも買える車だが、ミャンマーでは中古車が当たりまえ、よほど金とコネクションが無いとなかなか買えない代物なのだ。湖のほとりの豪華な新居、サングラスをかけて映画スターのような父親、英語力を見せたがっている地方の名士って感じで、喫茶店で少し話して後、ホテルまで送ってもらった。3年間、ずっとK君の事を家族の方に報告したいと言う私の思いは、通じなかった。

 後でミャンマー人に聞いたら、亡くなった人の事はあまり供養したり考えたりしないと言われたので、悲しい事を思い出したくないのか、と気を取り直したが、いきなり来た日本人になんだか富と教養を見せ付けられただけの訪問になってしまった事は今をもって残念だ。

 8時間かけてパガンに戻る

メイティーラダム
町の真中にある湖

 朝気を取り直してメイティーラを少し散歩する。湖が美しい。パガン時代に王侯貴族がここに避暑にやって来た事が偲ばれる。帰りはどうしたものかと考えて、行きと同じじゃ面白くないので、ジャッパタン経由で帰ることにした。そのバスに乗り込んで、バスと言っても軽トラックである。メイティーラ市内をアチラこちら回って客を拾い集めて、1時間半くらいそんな感じでとろとろとジャッパタンへ出発した。道中これと言って特筆すべき事は何も無い。赤土の道と、ヤシの木が見える風景が続く、4時間くらいかかったろうか、ジャッパタンに到着した。この地方では大きな街である。うちのレストランのメンバーの多くは、パガンとジャパタンの間にある村から来ている。村で取れるタンリエ(ヤシの樹液で作る甘い菓子)も、ジャパタンに集められて、ジャパタンタンリエとして出荷される。 さて何処がパガンまで行くバスの停車場か探しあぐねて、あちこち聞いてやっと小型トラックを改造したバスが、人も荷物も一杯、もう屋根しか場所が無いという、かなり迷ったが次のバスが後何時間で来るかも分らないし、到着しても見ての通り人と荷物が満杯にならないと出発しないから、どれだけ待てばいいか分からないので初めての経験だが、このオンボロトラックバスの屋根に登った。もうすでに満席なのに後から後から人を乗せる。お尻が屋根につかないくらいである、上が重いということは重心が高い=不安定=横転など頭の中で怖い思いが駆け巡る。しかし、他の人たちは平気で雑談したり、物食べたり屈託がない。私はというと、左に倒れたらこっちに飛んだら大丈夫か? どうすれば怪我が最小限に押さえられるか等を考えていて、引きつったっまま乗車していた。こんなに屋根に人と者を満載しているのに、坂道も何のそのえっちら上って行く。2時間も乗っているとだんだん人も少なくなってきて、最後の方は屋根から両足投げ出しながら、もうどんな乗り物も怖くないぞ!!と思っているうちに故障ストップもなしに、パガンニャウーに到着した。いよいよ、明日からはチン州への旅が始まる。

by 木村健一


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