変貌著しいヤンゴン

サウンチャウンの交差点、ヤンゴン
サウンチャウンの交差点に完成間近かの全面ガラス貼りのビルディング。
先日 友人の車でサウンチャウンの交差点、ヤンゴンでも2番目ににぎやかな繁華街を通りかかって、ビックリしたのは、何時のまにかこんな高層ビル(ミャンマー的には15階以上は高層ビルです)が建設されていた。全面ガラス張りで2008年5月のナギリス級のサイクロンが襲ってきたらどうなるんだろうかと思った。
こんな新しい建造物が出来ると、以前はそこに何があったのか?全く思い出せない。そんな感慨にはお構いなしに、ヤンゴンの街並みは日々生き物のように変化し続けている。あちこちで再開発や新しいビルが建設中なので、しばらくヤンゴンを訪問されていない方は驚かれると思う。
サウンチャウンの交差点、ヤンゴン
日本円で51億円の値が付いた、サウンチャウンの映画館跡 0.4エーカーの敷地面積。
そのサウンチャウン、上記のビルにも程近い古い映画館が、競売にかけられた。なんと日本円で51億円で落札された。企業ではなくて、確か個人が購入したとジャーナルは伝えていた。
今ヤンゴンやヤンゴン周辺、そしてタイのバンコクまで車道や鉄道が敷かれ、深海港の設備を進めているダウェーの不動産が、1980年代のバブルの頃の日本をしのぐ勢いで、倍々ゲームで高騰している。(ヤンゴンの不動産を扱うジャーナル「ゼイクウェ」にも、最近はダウェーの土地が記載されている。)
ミャンマーは完全に土地バブルに揺れているようだ。

☆英国人の社交場ペグークラブ

ペグークラブ
次に驚いたのは、英国統治時代、英国人の社交の場だったパゴー(ペグー)クラブを初めて見つけた事だ。
 ダウンタウンから行くと国立博物館の一つ手前の路地を右に曲がると、ロシア大使館の無味乾燥な門扉の前に、パゴークラブは、その百年前の姿を残しつつ、朽ち果ててまぼろしのように陽光の中に佇んでいた。
一応警察官が詰め所にいたが、「撮影していいか?」と聞くと、「いいともいけないとも言えない」と弱弱しく言うので、2000KSを、手の中に押し込んで中にズンズン入っていって撮影した。
大きな玄関かホールのような建物が向こうに見えたが、数匹の犬がうるさく吠えるので、遠くからの撮影になった。どうもそこが入り口だと思うが犬が怖くて近寄れなかった。
ペグークラブ
多分英国時代は、ピィーロードから直接入れる構造だったのではと思う。そして思い出したのは、以前福岡在住のM女史(従軍慰安婦の研究家)から、ここが日本軍が占領時、ヤンゴン市内6箇所あった慰安所の一つだと聞いていたのだ。久留米から芸者衆も何人が来ていたと言う話である。
慰安婦のことを書いて思い出したのは、それより以前に明治時代に、1890年以降1920年代まで、ミャンマーの地に「から行きさん」と呼ばれる女性達が、累計すると数百人いたという。その中にはこの地で命を落とした女性も少なからずいた事と思う。
その人達の墓が、トレーダーズホテルの駐車場の横、スーレーパゴダ通りに面した今は有料トイレが設置してある場所にあったという話を聞いた。そんな一等地にと最初は信じられなかった。
最近読んだ土橋泰子先生の著書「ビルマ万華鏡」にも、ピィーロードとタムウェの2箇所に日本人墓地があり、1998年11月に、ミンガラドン地区に移転されたとある。
ペグークラブ
しかし、から行きさんの墓の話は、まるで聞いたことが無く、実はサクラタワーで歯科クリニックを開いている、博識のウ・トントントゥエに聞いたのだが、やは
り多くの日本人が、から行きさんを日本人墓地に入れたくなかったのではないかと推測できる。
死んでからも差別された女性達の遺骨は、果たして新しい日本人墓地に葬られたのだろうか?タムウェの元の日本人墓地は、かなり荒れ果てていたようで、私がミャンマーに来た1998年に移転されるまで、今現在去年2010年5月に大火事で燃えたミンガラー市場がその場所だったと聞いた。

つわものどもが夢の跡 ラングーン(ヤンゴン)

プリト教会
ヤンゴンのダウンタウンの街並みは英国統治時代に整備されたものだが、それよりも更に古い時代、日本の戦国時代と同時代、 下ビルマの覇権をめぐっては、ビルマ族とモン族が血で血を洗うような戦いを繰り返していた時代に、タンリン地区に16世末から17世紀にかけて30年間、自国の王国を作った
ポルトガル人プリトーという男がいた。
教会
プリトーが建立した丘の上に立つ教会を、先日写真を撮影する事が出来た。この場所は 現在政府の管理地にあたり(直ぐ裏に英国時代からあるミャンマー最大の石油の精製工場があるため)一般人は立ち入り禁止地区になっている。
教会
今から400年位前、日本では豊臣秀吉やお茶の千利休の時代である。 外国人の プリトーが、モン族の後ろ盾を背景に、ビルマ人と対峙しながらも、小さな王国を造っていたとは、なんと興味深いドラマだるか?
そして、シリアム(現在タンリン)港から盛んに貿易も行っていたという。 その頃まだヤンゴン(当時はダゴン)港はまだ整備されてなくて、パゴーの港と並ぶ良港(河の港です)だったのだ。
教会
去年訪れたピュー族のベイタノー遺跡のように、またはヤカイン族のミヤウにある王宮跡地のように、地面にわずかばかりのレンガの基礎が残ってるものと思っていた。
ところが草が生い茂る丘の上のプリトーの教会は、訪れる人もいないパゴー河を臨む丘の上に、400年間の雨風に耐え、柱や壁は生い茂るツタや木々、草花と共存しながら頑強にレンガ建築の美しい姿を残していた。
まさに 夏草や つわものどもが 夢の跡

街の記憶2 昔、スーレーパゴダは島だった?

昔池だった場所を埋め立てて出来た広場。スーレーパゴダの北側に市庁舎、その東横にある建物は、英国時代デパートだった。この広場(フインチスクェア)にビクトリア女王の大理石の像があった。
昔池だった場所を埋め立てて出来た広場。スーレーパゴダの北側に市庁舎、その東横にある建物は、英国時代デパートだった。この広場(フインチスクェア)にビクトリア女王の大理石の像があった。
1820年代のヤンゴンの古地図を見ると、スーレーパゴダは湿地帯に突き出た島のような丘の上に立っている。
その北側周辺は多くの寺院があった。そして、東と南方面は湿地帯、池のような状態で、さらに南にあるヤンゴン河に続いていた。その湿地帯が埋め立てられ、今現在のマハバンドゥーラ公園や市庁舎前の広場になっている。(ファインチスクェア)スーレーパゴダの北側にあった寺院は、都市計画の邪魔になるので、今現在のボージョーアウンサン市場の西側、タイェードゥ寺院がある場所や、それより北に移された。
サクラタワー20Fのスカイラウンジから撮影。南にヤンゴン河が見える。スーレーパゴダの裏側から東横は200年前は大きな池だった
サクラタワー20Fのスカイラウンジから撮影。南にヤンゴン河が見える。スーレーパゴダの裏側から東横は200年前は大きな池だった。
そして、東西に走る大通りは5本。北からボージョーアウンサン通り(西側をコミッショナーSt. 東側をモンゴメリーSt.)。アノーヤター通り(フレーザーSt.)。マハバンドゥーラ通り(ダルホージィSt.)。コンデー通り(マーチャントSt.)。カンナー通り(ストランドSt.)。( )内は英国時代の名称

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街の記憶1  英国植民地時代のヤンゴン

街の記憶1  英国植民地時代のヤンゴン
パンソーダン通りを南(ストランド通り)に向かって撮影。英国時代に建造された壮麗な建築郡が今現在も、商業ビルや市役所の一部として活用されている。高い塔は港湾局。最近バスも新しいものが走行しているので、この写真だけでヤンゴンの街と分かる人はそんなにいないだろう。
1998年の3月から暮らし始めたヤンゴンライフも14年目になった。その間にもヤンゴンの街並みは、猛スピードで変化し続けている。NHKワールドプレミアを今年の2月まで受信していた。テレビばかり見ていて引き篭もりのような生活が続いたので、受信をやめた。
番組の中でブラタモリが秀逸だった。今の東京の街角を、江戸時代は明治の初期はどうだったかを、タモリが実際に路地を歩き、時にCGを使った再現映像で検証して行く、非常に興味深い番組だった。
このヤンゴンも特にダウンタウンと呼ばれる碁盤の目のような街並みは、英国統治時代に整備されたもので、ヤンゴン外大で2年学び、その後ロンドンで1年間留学生活を送った友人が、「変な話だけど、ロンドンってヤンゴンに似てる。実際は逆なんだろうけどね。ロンドンから来た人達が作り上げた街だから似ているのはあたりまえかも」と言っていた。
街の記憶1  英国植民地時代のヤンゴン
港湾局の建物を、ストランド通りより北に向かってシャッターを切った。最近減少してきたサイカーが客も乗せずに通っていた。
例えば、近所に新しいUNITEDショッピングセンターがオープンした。徒歩で3,4分なのでよく利用する。しかし、この場所に以前は何があったのか曖昧模糊で、どうしても思い出せない。人の記憶力とは案外頼りないものである。
ヤンゴン(ラングーン)の英国統治時代を記憶している人達も、今は随分高齢者になられているし、話を聞いても記憶がはっきりしなかったり、明らかに間違っている事もあった。
ミャンマーは、1826年 1852年 1885年、3回の英緬戦争を経て完全に英国領に併合された。
街の記憶1  英国植民地時代のヤンゴン
この壮大なアールデコ用式の建造物は、ヤンゴン管区の裁判所。写真は実は裏側で、正面からしか入れない。ストランド通りも、真横にコンクリート製の新ストランド通りが今まさに建造中。
スコットランド出身の技術将校アレキサンダー・フレーザーと医者のウィリアム・モンゴメリーの設計によりラングーンの街造りが始まったのは、第2次英緬戦争以後で、1860年頃には土地整備が整い、1892年下水道の完
成をもって、当時「東洋の真珠」と呼ばれたラングーンという都市がほぼ出来上がった。
今も英国時代に建造された、瀟洒で堅牢な建物が市内あちこちに散見される。

「スパ」イン バガン

「スパ」イン バガン電話:061-65099
「スパ」イン バガン電話:061-65099
「スパ」イン バガン電話:061-65099
文化遺跡のバガンにはスパやマッサージなどはホテル内でできるようになっています。ただし、最近で新しくオープンしたお店ではスパもできます。名前はBlossom Spaです、ニューバガンに位置しています。料金は、ミャンマー式マッサージは【15ドル/45分】、オイルマッサージは【25ドル/1時間】、アロマセラピーは【35ドル/1時間】、フットマッサージは【20ドル/1時間】となっています。
また、スパのほか「The Roasted Bean Coffee Shop」も「City Bar」もあります。さらに、夜には伝統的な踊りや操り人形のショーを鑑賞しながらお食事もできます。ミャンマー料理、中華料理、西洋料理、タイ料理とアジアンが注文できます。
住所:No(25), Thiripyitsaya Quarter, New Bagan
電話:061-65099