田園は田植えの季節

田んぼ
朝5時出発でピューに行く予定だったが、ドライバーの嫁が急病で延期になった。先日行ったのがピュー族の遺跡の町ピー。今回はピュー族とは関係ないピュー町。朝からの激しい雨で道路が池のようになっている。30分で引いたが、、、。。
翌日 早朝5時半出発で、雨の中
ネーピード・ロード(首都高速)を北に走らせて
ピューに到着、そこからから東に向かいシッタン川のほとり、
ミャンマーでは2期作はあたりまえ、田植え真っ最中の田園風景。ヤンゴンを少し離れるだけで、不動産高騰、自動車狂想曲もなく(少なくとも表面では)、人々は落ち着いて営みを続けていた。最近の記事でヤンゴンは世界の35位の物価高の都市だとか、住みにくい都市に変身中。
ヤンゴンの雨
ヤンゴンから少し離れると、空気が違う、風が違う、そして水牛もよく見かける。
中国製のトラクターも入ってきているが、、、
水牛
水牛 ジュウェー ねずみ チュウェッ
この区別も私には未だに難しい、、、

危険すぎる首都高速道路

国会議員 ミャンマー
ミャンマー新首都ネピドー「国会議事堂」
一般にネーピードゥ・ロードと呼ばれている、新しい首都に通じる道路なんで、首都高速としておこう。前にも友人が4台車の事故を見たと言っていた。何時も大ゲサな奴なんで、気にも留めてなかった。
今回の旅で、身をもって首都高速の恐ろしさを知った。ヤンゴンからピューまでは、早朝5時半出発で快適に時速100Kmから120Kmで飛ばして、わずか2時間でピューに到着した。ヤンゴン市外にある高速の入り口に行くまでに30分かかったが、それでも以前車やバスで行くと6時間以上かかっていたので、その速さに驚いてしまった。
問題は帰路だった。ピューから高速に入ると続けて2台、めちゃめちゃに壊れた車両が対向車線の端に横たわっていた。すでに人の気配はない。しばらく行くと帰路の道路で、ボンネットが全壊している車を通り過ぎた。けが人や死者が出ていると思うが、すでに何時間も前だったのだろう。
それで1年前か?日本人歯科医がこの道路で橋に激突して亡くなったニュースを思い出した。
雨も降ってるし、ドライバーにスピードを落として行くように何度も念を押した。 水牛を使って田植えをやってる村からいきなりコンクリートの高速道路である。
まず出発前日に、ドライバーが高速道はコンクリート道路なんで、タイヤを変えなくてはいけませんと言われて、日本から届いたばかりの車だが取り替えた。

ヤンゴンから新首都ネピドーへの高速ロード
パゴー山脈の丘陵地帯を一直線に伸びている高速道だが、いくつか小さな川があり、当然橋が架けてある。
全部ではないが一部の橋の幅が、車道の道幅の6,7割しかないものがある。また3車線あった道路が突然2車線になる場所が多数ある。 しかも、街灯はない。真っ暗闇の中で道の端を走行していた車の前に、突然道幅より狭い橋が現れたら、、、想像するだけで怖い。
そんな道をほとんどの車が時速160Km出して走行しているのだ。
あまりに事故や死者が多いので、アスファルト道路に変更するよう政府が動いているとドライバーが言っていた。
安全あっての便利さだと思う。 今ミャンマー特にヤンゴンは信じられないスピードで、発展を続けているが、この高速道のような発展なら考え直さねばならない。

全日空航空

全日空航空は2012年10月15より新規路線として成田からヤンゴンを週3便で運航することになりました。
スケジュールは週三回(月、水、土)で時間帯は
成田⇒ヤンゴン『1030発-0330着』
ヤンゴン⇒成田『2130発-0630着』
でなるようです。ビジネスや出張の重要が多くなってきましたため、直行便が再開するようになったと思います。
現時点では、ビジネス席(38席)のみで運航するようです。

麗しのペグークラブ





再び ペグークラブに行った。
100年前に建てられた、その後何度か改修されたであろう、
今は朽ち果てるのを待つように、小雨の中たたずんでいる。
もうじき改修作業が始まるのだろうか?あちこちにコンクリートのレンガが山済みされていた。
本来立ち入り禁止の建物だが、管理している人にコネを使って2度目の撮影を敢行した。
ここは英国統治時代の社交クラブである。もう1つのジムカーナー社交クラブは何度か捜し回ったが発見できないまま。当時ラングーンと呼ばれていたヤンゴンライフの英国人社会の華やかな社交の場として、2つの社交クラブは競い合っていたのだ。
第2次世界大戦中は、日本軍の将校クラブとして使われていた。久留米から芸者衆も随行していたそうである。従軍慰安婦の研究者の女性から聞いたことがある。
今は国軍の建築部の管理の下、訪れる人もなくひっそりと、朽ち果てるままに放置されている。

スーレーパゴダ

Sule Pagoda
今日のスーレーパゴダ久しぶりにヤンゴン市の中心をなすスーレーパゴダにやって来た。珍しい八角形の美しいパゴダである。
ピーロード(空港からヤンゴンの街に入ってくるにはこの道路を通る)に、8マイル、9マイルという地名は、このスーレーパゴダを基点にしている。英国が第2次英緬戦争に勝って、今のヤンゴンも英国領になった当時。今写真のスーレーパゴダの裏側(南側)は、ヤンゴン川に続く池のような湿地帯だったそうである。その後、植民地政府によって干拓され、今は公園になっている。
その湿地帯を自然の西側の防御堀に見立て、写真スーレーパゴダの左(東)から南に向かって城壁が築かれていたそうである。
1752年 モン族を破ってヤンゴンを平定したアラウンパヤー大王が、 ヤン(敵)ゴン(壊滅)と、名前をつけたと言われている。文字の意味としてはヤン(戦い)ゴン(終了)とする事もできる。
その東側の塀と西側の湿地帯の中ほどにアラウンパヤー大王の宮殿があったと最近読んだ歴史本で知った。