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パゴー管区北西ピーへの日帰りの旅です
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ヒーへの日帰りの旅

ピーへの日帰りの旅 1


  ピーはヤンゴン管区の北、パゴー管区内の北西に位置し、マグエ管区にも近い。ピーには2回行ったことがある。初めて行った時は、ヤンゴン外大の学生の頃(1999年か?)で、1人で行った。ホテルもサイカータマーに聞いて、ピーで一番いいホテルと言われるミンガラガーデンホテルに行くと、あいにく満室だとか。次に彼が連れて行ってくれたゲストハウスはぼろぼろの建物、オーナーはインドの聖人サイババのようなアフロへヤーに何日も着替えていないような服装、宿泊料3ドル。夜も遅いしここに決める。

オーナーの服装にすべてが出ていた。シーツはここ数週間は代えた形跡が無いし、トイレとシャーワールームが一緒でしかも共同、どうしようもなく不潔で思い出したくも無い状態だった。次の日の朝食の時、ロンヂーはいて体操している男がいた。あの体操の仕方「日本人ですか?」と聞くと、カンボジアに3ヶ月くらいいて、バガンにも2週間いたそうで、彼にとってはこれしきのゲストハウス何とも無いご様子。

この日市内観光用に車を借りたので、「どうです一緒に行きますか?」と誘うと「いいですか?」と同行した。アジアをふらついている若者(敬語もきちんとしていて、育ちはよさそう)と半日話したが、なかなか得るものが多かった。カンボジアには薬にどっぷり浸かり、目がドロ〜ンとした日本人の若者の吹き溜まりのような、1泊1ドルのゲストハウスがあって、そこにいる若者は朝が始まると、雄たけびを上げるそうだ。「ああAA〜今日も1日することがない〜」そして、やおら始まるカンボジア人の悪口。その他、パッカーからの情報を初めて聞いたので、なかなか興味深い話がたくさんあった。昼過ぎにまた1人でバスで帰ったと思う。(記憶があいまい)

 2回目にピーを目指したのは、去年のティンジャンが終わりかけの日、2004年4月16日だった。日本から戻った次の日で、日本からピーにいる老人に薬を持っていってほしいと頼まれていたからである。何冊かのミャンマー関係の本に名前が出てくる、ウ・サンペイである。旧日本軍に通訳として少年の頃から可愛がれ、戦後慰霊団の通訳などもかって出て、慰霊で訪れた日本人ならご存知かも知れない。今は彼は半身不随で横になっていて、娘夫婦と静かに暮らしている。木村の郷里のF市在住で、1人でこつこつと従軍慰安婦の資料を集めているM女史から頼まれた薬を、ウ・サンペイの家を探し出して手渡した。

サンペイ氏は、日本でパンの製造法を学び、ピーで初めての洋パン店を開店、非常に流行っていたそうだ。息子にも厳しく、年をとってもなかなか息子に代を譲らなかったそうである。しかし、高齢には勝てずに、《正確な年齢は聞いていない》やっと息子に店を譲った途端に、人生は坂道を逆行し始める。息子の突然の死。サンペイ氏自身も脳梗塞に倒れる。店の名義はすでに息子のもの、残った息子の嫁がすべて自分名義に書き換えて、病気治療で費用等がかさむサンペイ氏を尻目に、嫁は一銭の金もくれないそうだ。そんな話を娘婿が愚痴口調で長々と話された。

せっかく来た事だし、まずは前回泊らなかったアウンミンガラガーデンホテルに行き、1泊の予約を済ませた。ガーデンホテルと名前が付いている、池を囲むようにコテージが並び。池の端にマンゴーの青い実が風に揺れていた。ピーはビルマ族が北方からビルマに入ってくる前に栄えたピュー族の城郭都市だったところだ。タイェキッタヤー遺跡と一般に言われている。その釣鐘状のパゴダを見て回った。ほとんど1回目の時回っていた。

ピュウ時代は6世紀から8世紀にインドの文化の影響を受けた城郭都市として栄え、中国の歴史書にもその名を残す。9世紀の初めに南詔国に滅ぼされた。銀のコインなども発見されたとあるが、詳しいことはよく分かっていないそうだ。その後に、主役が入れ替わるように北方らやって来たのがビルマ族だといわれている。(南詔国の先鋒として活躍した騎馬民族が元祖ビルマ族で、ピュー滅亡の後南詔国も引き上げて、真空地帯になったこの土地をビルマ族が目指したともいわれている)

予定より早めに遺跡見学が済んだので、このまま帰るか?1泊するかと同行していた者4名で話し合ったら、「帰ろう!」ということになった。道案内してくれた、サンペイ氏の娘婿の長々しい愚痴に皆もちょっと嫌気がさしていたので、彼には案内料として十分なお礼をして、ヤンゴンから乗ってきた自家用車で帰ることにした。

パスポートなども預けている、アウンミンガラガーデンホテルに戻ると、多少ののキャンセル料は覚悟していたが、部屋を覗きもしていなかったので、受付のお嬢さん、「お金はいいですよ」と縁が無いホテルとはこんなもんなんだろう。

当時、購入して1年がたっている1987年モデルの日産サニーで一度も遠出をした事がなかったので、ピューを往復できるかどうか、実験的に来た旅でもあったので、一路ティンジャンの喧騒の中ヤンゴンを目指し帰ることになった。《続く》

ピーへの日帰りの旅 2

ティンジャンは最終日はもう水を掛け合わない。静かな休日を1日過ごして新年を迎える。ヤンゴンに帰る描写をする前に、ピーの街角で見かけた騒動を記す。この日は最終日の前日、一番荒れ狂う日である。ピーの町で昼食をといっていた時のことだ。町のメインストリートには、郊外から来た人達なども小型トラックに便乗して、町を騒々しく車で走り回っている。

水をかけている女性を、止まった車から飛び降りた一人の若者がその女性に抱きいてすぐに車に乗って走り去った。女性の叫び声で、夫だろうか?道の傍にあったレンガを抱えて、車を追いかけたが、車はフルスピードで行ってしまった。あれが少しタイミングが遅ければければ乱闘になっていたかもしれない。とにかく、ティジャンは喧嘩が多い。それで2004年も2005年も4月の祭りの間は日本に帰っていた。

ピーからヤンゴンに向かって1つ手前のシュエタウン(金山という意味になる町の名)に着いた。メガネをかけた仏像で有名なお寺がある。目の病気に利く仏像というので、全国から眼を病んだ善男善女がお参りに来ている。メガネだけで幅2Mはある大きな仏像である。ミャンマー全土に何十万何万の仏像があるか誰も分からないと思うが、パゴダにしろ仏像にしろ、何かしら民衆をひきつけるエピソードを持っている。人をひきつける因縁話が必要なのだ。

ティンジャンに沸く幾多の村や町を過ぎ、といっても幹線道路に作られた舞台(マンダ)付近には車が通行できないくらい群集がひしめいている。3,4人の警官が整理してくれなかったらとても通れるものではない。そんな箇所が3,4箇所あった。車がスロー走行していると酔っ払いが、何とか車の窓をこじ開けて、水をかけようとしたり、ティジャンの時のミャンマー人の狂乱ぶりは怖いものがある。

町を出て田舎の田圃ばかりあるような道でも、農民が水を抱えて待ち構えている。大人も子供も、年に1度の大はしゃぎが許される日なのだ。ヤンゴンのティンジャンしか経験が無いので、田舎もものすごく盛り上がることがよく分かった。そうこうする内にレッパタンに到着した。(夕方6時で、水掛は終了する)

ここで軽く食事をすることにした。何軒か並んだ食堂は、この日は道路のすぐそばまで特設テーブルを並べている。若い女性が働いている店に座ることにした。ヤンゴンではウェイトレスがいるレストランや喫茶店はほとんど無い。ティンジャンの間は女性はタメイン(女性用のロンヂー)をはかず白いパンツルックである。若い男どもも、パンツルックはまともな方で、上半身裸で顔に黒い墨を塗ったくっている、目立ちたがり屋もたくさん見かけた。

その食堂は、店の前に調理台を持ってきて、丁度お客に向かってステージで何かパフォーマンスでもできるような,客が料理をしている人を眺められる造りになっていた。実際ものすごいシナリオなしのパフォーマンスを演じてくれた。大騒動の途中まで、初老のやせや男客と店の看板娘の大喧嘩と思っていた。テーブルで酒を飲んでた男は、怒ってテーブルを返しそうになった。隣に座っていた若者は、それを押しとどめる孝行息子といった関係か?

しかし、その怒りで形相が般若になっている女性が、この酔っ払いの初老のおっさん(経営者)の娘だと、だんだん分かってきた。娘は大声で「こんなに忙しいのに、フン、いい気なもんさ!!だらしなく酔っ払って。娘達は朝早くから1日中働いているのに。料理するのは父さんの仕事でしょ!!その本人が酔っ払って、、、いい加減にしてよ!!」とものすごい剣幕で、われわれが頼んだ料理を調理しながらの大喧嘩である。もう後半は完全に娘のペースで、出来上がりの料理が心配だった。出来上がった料理を運んできたのも、その娘さんだった、さすがに大声で怒鳴り散らかしていたのが恥ずかしかったと見えて、われわれにはニッコリとしてくれた。笑うと先ほどの形相とは打って変わって、かなりきれいな女性だった。そして料理は驚くことに大変おいしかった。不思議だ。

しかし、映画でもあそこまでの恐ろしい形相を見たことがなかったので、改めてミャンマーの女性は怖いな〜と、つくづく肝に銘じた日になった。レッパタンから、ヤンゴンに戻ってシャワーを浴び日本酒で晩酌してすぐに床に就いた。騒々しくも長い長い1日が終わった。ドライバーも1987年モデルの日産サニーで、遠出ができると自信をつけたようだ。

by 木村健一
2005年7月10日記
旅行:2004年4月16日


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