チャイントン方面への旅行の特徴は、一言で云うなら、トレッキングとその途中にある少数民族居住地訪問の二つに尽きる。
2012年 12 月 27 日
― 旅程20時間超 ―
零時 20 分羽田を発ち、バンコク経由でヤンゴンに朝 9 時に到着、G&Gの手配で待機していた日本語ガイドのハンニュンさんとヤンゴン空港から外に出ることなく、ミャンマー国内線に乗ったのが 12 時、ラショー、マンダレーを経由し、最初の目的地タチレイ(タチレイク)に到着したのは午後 4 時だった。日本出発から 18 時間(家を出てから21時間)の旅程だったことになる。
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「1」 ヤンゴンエアー |
ミャンマーの都市部意外では外国人が現地ガイドなしで行動することは出来ない仕組みになっており、タチレイク空港では、 G&G に手配してもらった今日から4日間シャン州を案内するガイドとクルマとドライバーが待っていた。
まずはホテルチェックイン後、すぐにタイとの国境に向かう。国境は単純な線引きがあるのでなく、ミャンマー領土が V 字型に張り出している、というか、タイ領土が両サイドにある。又、川を挟んで相手の国である。
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「2」の1 ゲイトの向こうはタイ |
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「2」の2ミャンマー左とタイ右 |
ここタチレイクはミャンマーにもかかわらずタイバーツしか使用できない。レストランのメニューもタイ語である。国境から入ったタイ人がタチレイクで売っている低価格の中国製品を買ってタイに戻る、という光景が目立つ。その逆ミャンマー人がタイに行く人ははるかに少ない。店のミャンマー人はタイ語を話す。メニューもタイ料理一色である。人々の自然の成り行きによって形成される経済の実態を垣間見ることが出来た。
12 月 28 日
―明るいアカ族―
朝 7 時にタチレイのホテルを発ち、タウンエースに現地トレッキングガイド、ヤンゴンからのガイドと共に、チャイントンに向かう。途中、検問所が2,3ケ所あった。ミャンマーを陸路で走行中は、しばしば検問所がある。どの検問所も写真撮影は禁止である。山の麓でクルマを置き、トレッキングの開始である。昼飯は食べられないので、腹ごしらえとしてシャンそばを食べ、歩き始めたのが 10 時半、アップダウンを繰り返して午後 4 時まで、小休止以外は歩いたことになる。千数百メートルの山々の中腹にある 4 カ所のアカ族の村を訪ねたが、観光客が来れる範囲のためか、老女がおどけたしぐさをするくらい人に慣れている。
G&G より |
チャイントン近くの村はトレッキングでも行きやすいです。最近は、欧米人の観光客がよく行きますので、外国人と慣れているようです。 |
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「3」おどけるアカ族老女 |
バイクも普及しており、時間に制限があるものの自家発電による電気の供給もある。言わば、文明化途上にある少数民族といえる。地元ガイドのみが彼らとコミニケーション出来る。シャンの言語はタイ語に近く、少数民族は各々別の言語を持つので、ミャンマーにおける言語地図は複雑である。
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「4」の1こんな山道が続く |
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「4」の2気をつけて渡る |
地元ガイドは地図を一切持たず、数時間我々を確実にパイロットする。地図がないので位置関係や距離感、高低差、海抜等が皆目わからずガイドの経験による感覚で移動していることになる。総じてミャンマーでは地図を見かけない。山を降り、歩き始めた場所とは違う場所に車は移動、待機しており、チャイントン市内のホテルに到着したのは夕刻であった。
G&G より |
チャイントンの詳しい地図はなさそうですね。できれば私も欲しいです 。 |
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「5」 HOTEL |
12 月 29 日
―英国時代の遺産いまも―
海抜800メートルのチャイントンは、2千メ−トル級の山々が周囲を囲み、地形的には甲府市に似た盆地である。この季節、朝は霧が立ち込め、吐く息が白く、外出はウインドブレーカー又はジャンパーが必要であるが、昼間はTシャツ1枚が適当な暑さとなる。チャイントンの市場は、食料を除き、圧倒的に中国からの物資で占有されている。
食糧以外の物価は安くないミャンマーにあって、衣料品を中心とした中国製品は押し並べて安いようだ。
郊外に英国が残した遺産である病院を見学した。看護婦が二人常駐しており、訪ねたとき、何と、今朝生まれたという母と子とその家族がいた。感動!
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「6」の1英国が残した病院 |
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「6」の2今朝出産したという |
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「6」の3英国が残した郵便局 |
百年前の建築というが、しっかりしたレンガ作りの美しい建造物である。
地元のピクニックの人達がいた。
同じく近くにある英国が建てた郵便局も今だに使用されている、という。もっとも量が少ないので発送するのは一週間に一度とのこと。
英国の有形遺産が今だに社会的資産として生きている現実、大英帝国は何を成したのか、その後やって来た日本は何を行なったのか、植民地とは何だったのか日本で教えられたこととは違うんじゃないのか、歴史の現場はいろいろなことを教えてくれる。
12 月 30 日
―究極の有縁社会ルエッ族―
7 時半にホテルを出発、舗装路を一路マインラー(モンラー)方面に向かう。2日間、上り下りを繰り返し、普段使っていない筋肉を酷使したため、ふくらはぎや太ももが痛む。ウオーキングの趣味のない私には、相当歩くことを予告されている今日の行程は大丈夫だろうか不安がよぎる。ミャンマーにしては舗装された良い道路だなとガイドに尋ねたところ、中国が関与して作った道路だという。メンテナンスが不十分でやたらに陥没カ所や小穴が空いており、それを避けるため、しばしば蛇行運転となる。もし、自分が運転したら、たちどころに穴に落ち込みパンクしているはずだ。途中、雲を眼下に見る眺望の良い場所が幾つもあり、やり方によっては有望な観光資源となり得る。
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「7」雲海 |
毎回感じるが、ミャンマーの自然は本当に美しい。何しろ、人間の手が入っていない場所が圧倒的に多いのだ。日本ならどこへ行っても目に入る自然を台無しにするコンクリート構造物、鉄塔、高圧線等は目に入らない。
反面、安全性への配慮は日本の常識の外にあり、1歩足を踏み間違えれば、崖を転がり落ちてしまう場所も多々ある。
この美しい自然の中、反政府ゲリラが立てこもっている、という山をガイドが指差して教えてくれた。
チェックポイント(検問)を何ヶ所か通過して、車はマインラー地区に入り、このまま進めばマインラーに到達出来るが、途中車は左に折れ、小道に入る。土ホコリを巻き上げながらどうにか 1 台が通行できる山道を登って行く。日本における林道といったところである。
中国との国境の街、魔都マインラー(モンラー)は現在、我々外国人は入れない。あの山の向こうがマインラーという地点まで来たので、ガイドにイミグレで交渉してもらったが、まったく受け付けてもらえなかった。聞くところによれば、タイのメーサイからタチレイク入国すれば外国人もマインラー行ける、と云うから話は理解出来ない。
G&G より |
私たち旅行会社も理解はできません。タチレイクから入るのも外国人で、ヤンゴン
から入るのも外国人ですが、何か違うのでしょう!!!不思議ですね。
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「8」車はここまで |
クルマで行ける最終地点で車を置き、歩き始めたのが 10 時少し過ぎ、戻ったのが 14 時 45 分。この間、訪れたのはルエッ族。乾季の今だからこそ、歩けるが、雨季(4月から10月)だったら、到底歩けない道である。
土ぼこりにまみれながら山中を歩き続け、途中、古寺が1ケ所あったが家は全くなかったが、2時間ほど歩き続け、鬱蒼たる樹木の中に家々が見えてきた。中腹のくぼ地のような場所に、上から見る限り体育館のような大きな家が幾つか見える。随分と大きな家に住んでいるんだな、というのが最初の印象で、一階は資材置き場、牛、豚、鶏等が出入りしており、全て放し飼いだ。
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「9」の1 2階が住まい |
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「9」の2 部屋へ入る |
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「9」の3 囲炉裏を囲んで |
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「9」の4 逞しいルエッ族の子供 |
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「9」の5 建築中の家 |
二階に上がり、建物内部にはいると真っ暗、幾つかの囲炉裏に火があり、その周りに人がいるのが何とかわかる。徐々に内部が見えてきたときは、唖然、驚き、声をあげるほどの感動等が湧きおこった。我々が侵入しても、歓迎するでもなく、拒絶反応でもなく、まったく変わらない態度で、人達が座って、炊事やら何かをしている。観光客が訪れる民族に見られがちな、「観光客が来たぞ!」「商売の始まり!」の構えはない。他の民族のような色使いが派手な個性ある服装もない。
各々の建物は数家族から多いのは 17 家族数十人がこのひとつ建物の中で一緒に生活を共にしているのである。囲炉裏の数が家族の数のようだ。生活空間の大広間の両サイドは人間の身長幅の寝所となっている。すぐ隣にはかなりの規模の古刹がある。三百年を経過しているという。
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「10」の1 隣の古刹 |
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「10」の2古刹内部 |
他の少数民族が伝統的に土着の精霊信仰を特徴としてきたのに対して、ルエッは、仏教である。
他の少数民族とも際立って異なる生活スタイルを持つルエッ、我欲を否定し、個人のプライバシーは云うに及ばす、家族間同士の秘密もなく、恐らくはその概念もないであろう、 近代文明文化隔絶社会ルエッ、且つて、外国の NGO が小学校のようなものを近くで始めたこともあったが誰も通わず、自然廃止となったという。だが、彼らは様々な生活の知恵と技術は有しており、自分たちで家を建築中のところを見ることが出来た。
古代から寸分変わらない自己完結型原始共同体社会ルエッ、日本の古代にもなかったであろう家族大集合体社会ルエッ、
政府はもちろん、慈善、医療、開発、生活レベル向上等耳触りの良い口上を標榜する手前勝手な連中の魔の手が差し伸べられないことを祈る。
12 月 31 日
―商売熱心エン族―
朝もやの中、田植えの季節(二毛作)のようだ。
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「11」 二毛作のようだ |
クルマを降りて、トレッキング開始の場所に黒づくめの人達が数人いる。今から訪ねる「エン族」である。山々の中腹に村落を形成しており、周囲はよく整備された農地になっている。
1 年数ヶ月前、この近辺で、別の地域からやって来た数十人の武装ゲリラと政府軍の戦闘があり、1年前は、外国人のこの地域への入域は禁止されていたそうである。
1時間ほど歩き、エン族の村に着くや否や、瞬く間に女達が布で作成した小物の展示即売会となった。
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「12」の1 商売熱心なエン族の女達 |
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「12」の2 エン族の女はお歯黒 |
交渉は極めてシンプルで、無言で示す指 1 本が千チャット( ks )〈百円〉、指の数が 1 から最高 5 (5千 ks )で示されるだけである。特に買いたい物は見当たらないが、家に上がり込んだ上に、四方八方からこれだけ熱心に売り込みされると、全く手ぶらで引き上げるのは気が引ける、と云うもの、ここはひとつお愛想で何点か買う。
観光用に、自作製品の販売を習慣化したエンやアカ、現金収入があるため、家によっては精米機やバイクを持つに至った彼らの未来は果たして明るいのか、それとも、欲望の扉が開かれた今、欲得のおもむくまま更なる物欲に生活の全てを目的化することになるのか、十年後、二十年後の彼らを見たいものだ。
ホテルへの帰途立ち寄った、チャイントン郊外に位置する場所に生活するパラウン族は、外面からも豊かさが感じ取れ、その生活スタイルは市街地に住むミャンマーの人達との区別は見られず、住宅もレンガ作りの瀟洒なものも登場している。限りなく都市生活に近づいた少数民族、と云える。
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「13」の1 パラウン族 |
2013年1月1日
― ヤンゴンへ戻る −
漆器製作や大きな仏塔を見てからチャイントンを離れることにした。
午後 3 時チャイントンを離陸した 68 席の AIR KBZ プロペラ機、帰路はマンダレー、ヘーホーに寄り、その都度若干の乗客入れ替えがあり、午後 6 時過ぎヤンゴンに到着した。
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「14」の1 チャイントン市内 |
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「14」の2 仏像 |
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「14」の3 仏像の足元で |
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「14」の4 ミャンマー国内線KBZ航空のプロペラ機 |
ヤンゴン市内は、以前より渋滞が多くなっている。クルマの値段が安くなっているためか車が増加しているようだし、新しい車種が増えている。空港からのタクシーがスピードメーターの針が動かない(壊れている)のに唖然とした数年前の経験は今後なくなるのであろう。
G&G より |
ヤンゴンに渋滞がない所はないみたいです。毎日は大変!! 。 |
大きな変貌を遂げようとしているヤンゴン、この都市と今回訪ねたシャン州奥地との文明文化の違いは、東京と日本のいかなる僻地の違いも、それは連続した同質のものにしか思えないほど、ミャンマーでの地域、民族の差異は大きく、別の世界がそこにある。
ミャンマー不思議あれこれ
我々観光客は、車を使えない、とのことで、土埃にまみれながら道を歩いたが、地元民はバイクや四駆を使っている。我々が車を使えないのはどうしてだろう。もっとも、ヤンゴンからはチャイントンに外国人は陸路で来ることは禁止されていることを考えると何らかの理由がある、ということであろうか。
G&G より |
ヤンゴンからチャイントンの陸路で行くとすれば 1 週間ほどかかりそう。アクセスはぜんぜんよくないです。チャイントン周辺の村はバイクを乗って事故にあればその地区の管理人たちには責任が重いでしょう。また、トレッキングの専用町ですので、バイクを乗っても意味がなくなると考えているとおもいます。 |
シャン料理はミャンマー料理の一ジャンルと思っていたが、シャン料理を銘打った店はシャン州にはない、とのこと。ヤンゴンや日本にすらあるシャン料理の店が、観光客が来るシャン州のタチレイクにもチャイントンにもないとは一体どう考えれば良いのであろうか。
トレッキングに明け暮れた 4 日間、近くのレストランでタイ料理又は中華の食事後は、歩き疲れた疲労感のため 7 時か 8 時に眠りについたが、ベッドの硬さのためか、熟睡とはいかず、途中で目を覚ましてしまう。ちなみに飲みながら歌か音楽を聴かせる店はない。又、それ以外の遊興する店は当然ない。ミャンマーの男が夕刻から夜にかけよく通うのは小さ目のカップに甘い茶のようなものを飲んでいる店、これがミャンマー式喫茶店である。女性客はいない。すなわちミャンマーでナイトライフはない、と言っても良い。ヤンゴンでは次から次へと女性歌手が歌を聴かせる大規模なクラブがあるが、大衆的ではなく、中国人とインド人が目立つ。
ミャンマーではキリスト教を除き、新年を祝う習慣はない。日本における 4 月 1 日の年度変わりのような感覚だろうか。隣国タイでは、年末から年始にかけ故郷へ帰る習慣があるが同じ仏教国でも全く違う。
G&G より |
だって、ミャンマーのお正月は 4 月ですよ。 4 月 17 日は元日です。その日の前から 玄関で「アターオー」というものをおいて新年を迎えています。皆で功徳を行うのは多く、それはお祝いの一つとなります。 |
少数民族の村を訪ねたとき、我々の常識では気が引けて考えられないが、地元ガイドは、声をかけることなく、黙って個々の家の扉を開けて内部に踏み込み、踏み込まれる側も特段の変化ある態度とならないのは、これまで数年に及ぶミャンマー旅行でお馴染みの光景である。
総括
シャン州の主たる民族シャン族自体がミャンマーでの 135 に及ぶ民族のひとつであるが、今回訪ねた、アカ、ルエッ、エン、パラウンの諸部族(民族)も各々 135 の民族のひとつなのである。
どの少数民族も、日本の“おしん”の時代、否、昭和の初めより、食べる、という点では豊かである。見た限りでは健康状態も悪くなく調子の悪い人は見かけなかった。日本には飢えで苦しんだ歴史が度々あるが、ミャンマーには少数民族を含めて飢饉という言葉は過去も現在もない。もちろん、反政府活動で難民となって母国を逃れ、苦境にある人々はいるが、これは別の問題である。
格差が話題になる日本、だが、考えてもみよ、格差とは、互いに見え隠れする位置にあり、一部でも価値を共有することを前提として成り立つ。ヤンゴンで暮らすミャンマーの人はこれら少数民族を見たことがなく、意識しないのが普通である。又、少数民族の人が都市に出向くことも原則ない。見たことがなく、互いに意識しなければ格差、怨嗟、軋轢は存在しない。
ミャンマーは何処へ行っても子供が多い。五人以上が普通だ。この人的資源、地下資源、百パーセント超の食糧自給率を有功活用すれば、発展の可能性は大きなものがある。
旅行豆知識
ミャンマーの物価は、外国の旅行者にとって割高感がある。特にヤンゴンのホテルは一年前の 55 ドルが今回 1 65ドルになっていた。
国内線飛行機は予定された時刻に発たないと思うべし。現に、当初予定の時時は午後から午前になったり、その後幾度も変更となった。注意しなければならないのは、予定が早まることがあることだ。又、飛行機料金はミャンマーの人と外国人では大きく異なる。
車を使用するミャンマーの地方旅行では、経済的な面から云えば最適なのは 2 人であろう。1人では、ヤンゴンからのガイド、地元ガイド、ドライバーを利用するので、贅沢な旅行と云える。 3 人ではクルマ 1 台では無理となり、もう 1 台が必要となるので、その分費用はかさむ。車種の大小等も自分なりの希望をあらかじめ伝えるのが良い。
地元ガイドの良し悪しにより、トレッキングと少数民族訪問の内容は、大きく左右される。地元ガイドは英語を使うので、英語でのコミニケーションに問題なければ地元ガイドのみでの行程も可能であるが、おまかせでなく、あらかじめ、どの民族を見たいのか明示しておくのも一考であろう。ちなみに日本語を話す地元ガイドはいない。今回は、何も予備知識のない私の行程に G&G の案で、結果的に見る価値が最高だったルエッ族訪問を入れてくれたことに感謝である。又、地元ガイドは、シャン語はもとより、少数民族の言語、タイ語、英語を使い、早朝から夕刻までフル回転してくれたこともあり、最後の日には1割以上の謝礼(チップ)を気分よく手渡した。
到着時、ヤンゴン空港で I.Phone が電波を一時的に捉えたが、その後はヤンゴンを離れるまで I.Phone 及び I.pad 共に圏外であった。通信連絡が途絶えることは、現在の日本人、特にネットが生活の中心の若者には大きな不便と不安感を持ちきたすと思われる。従前の携帯電話だったら交信できたのに、新型では出来ないという奇妙な現象となるがこれも過渡的であろう。
「主要料金の今回参考金額」
◎ホテル
12 月 27 ‐ 28 日 Mekong River Hotel 1泊 65 ドル
12 月 28 ‐ 1 月 1 日 Private Hotel 1泊 45 ドル
01 月 01 ‐ 03 日 Park Royal Hotel 1泊 165 ドル
◎ガイド
ヤンゴンから同行ガイド(宿泊費、国内線費用含む) 6日間 600ドル
チャイントン現地ガイド 5日間100ドル
◎車(タウンエース)とドライバー 6日間630ドル
◎国内線飛行機
12 月 27 日 ヤンゴンからタチレイク Yangon Air 190 ドル
01 月 01 日 チャイントンからヤンゴン Air Kanbawza 190 ドル
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「15」の1 アカ族 |
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「15」の2 市場に買物するアカ族夫婦 |
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「15」の3 エン族 |
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「15」の4 路上の販促その3 |
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「15」の5 路上の販促 |
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「15」の6 路上の販促その2 |
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「15」の7 子供は労働力 |
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「15」の8 シャンの人の旅行 |
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「16」の1食材は豊富で新鮮だ |
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「16」の2 シャンのお茶 |
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「16」の3 酒を作る |
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「16」の4 シャンのそば |
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「16」の5 大きな唐辛子 |
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「16」の6 生きている地鶏の販売 |
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「16」の7 川の魚か |
廣瀬 幸一
(ミャンマー滞在2012年12月27日から20 1 3年1月 3 日)
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