今回の行程は、ヤンゴンから一路東へ進んだ東部のモン州とカレン州である。12月27日のモーラミャインを皮切りに、ビルー島、タンビサヤ、パアンと周り、12月31日にヤンゴンに戻った。
今回のヤンゴン空港到着は朝である。羽田を深夜発のバンコク経由便はいつものことながら眠れないまま到着となる。既に、G&Gのカインカインエーさんとガイドのリンさんがロビーで待機しており、いつものことながら、ミャンマーの旅は安心、安全である。
■モン州・モーラミャイン
空港からそのまま、行程を共にするクルマに乗り込み、かつてビルマ族と一進一退の興亡を繰り返し、独自の王国とモン文字を持っていたモン族が暮らすモン州に向かう。実はモン州を訪れるのは初めてではない。2007年の年末、初めてのミャンマー旅行では、山頂のパゴダで有名な聖地チャイテイヨーに行ったが、そこはモン州にある。だが、今回は、ヤンゴンから南東方向に向かい、チャイテイヨーを左に見て、一路東を目指す。何時間走っても、道路は舗装されており快適だ。夕刻まで走り続けて、サルウイン( ThanLwin )川という大きな川を渡ると、モン州最大の町モーラミャインに到着する。川のほとりのアトランホテルはバンガロースタイルである。
19世紀からイギリスが、戦争中は日本が支配したここは古くから栄えた港町であり近代的建物も多くありよく整備された印象だ。
翌朝、向かったのは船着き場であり、ヨーロッパからの観光客数人と日本人私1人は、地元の多数の商売人と共に、対岸のビルー島に渡し船で向かい、1時間ほどで到着した。島内の移動は馬車というか3人も乗れば窮屈になるロバが引っ張る乗り物である。ゴムの生産者や杖やたばこのパイプ等小物を作っている家族経営の住民が多いようだ。
泰緬鉄道
3日目は、広大なゴム園が続く中、南に下ること1時間、タンビュザヤに到着、運転手も現地の人に道を尋ねながら、泰緬鉄道のビルマ側起点に到着した。記念に残る機関車が良く手入れされた状態で鎮座している。スーチー女史も悪名高き死の鉄道と云うように、この鉄道を作るための労働で命を落とした者は夥しく、現地人動員10万の内、死者3万ー4万、捕虜動員5万の内、死者1万ー2万、日本兵動員1万5千の内、死者千人、と云われ、枕木1本に1人の死はまさに事実である。重労働に加えて、コレラ、赤痢、マラリヤが大量死の原因と考えられているが、今考えれば狂気以外の何者でもないことを当時の日本人が成し遂げたことに、驚嘆の他ない。英国兵士の立派な墓が近隣にあり、この鉄道のタイ側にも行ったことがあるが、やはり英国兵士の墓地は広大でよく整備されていた。戦争を通じてはるかに膨大な数の兵士が命を落とした日本人のためには慰霊塔があるのみで、墓はほとんど見かけないのはどういうことだろうか。何と、日本軍兵士の遺骨の圧倒的多数はここビルマに限らず、未だ多数が収集されていないのだ。
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泰麺鉄道の機関車 |
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泰麺鉄道の石碑 |
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英国兵士の墓地入口 |
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よく整備された英国兵士の墓地 |
仏教の栄光
タンビュザヤからの帰途立ち寄ったウインセントーヤという巨大寝釈迦仏には驚愕だ。一体どうしてこんな大きな仏像を作るんだろうか、大きければ大きいほど信仰心が高いことになるのだろうか。前長183mのこの仏像は10年以上前から建設が始まり、今もまだ完成していないという。更に驚いたことに、この巨大な仏像の真向かいに、寝ながら対面する形で全く同じ大きさの寝釈迦仏をもう一体建設するらしく、既に工事が始まっている。その資金は一般民衆の寄進によるものというからこの国の仏教に対する信仰は尋常の話ではない。ここに限らず、新しいパヤー(パゴダ)がそこかしこに立てられているのをしばし見かける。どこへ行っても、パヤーや仏像に向かってひざまずく善男善女、瞑想する修行僧、僧侶への敬意と金品の寄進を日常の光景として目にする。それらの行為は真剣であり、隣国タイのように観光と一体化したそれとも様相が異なる。思うに、ミャンマーは仏教の興隆期にあるのではないか、東大寺大仏を建立した日本の仏教興隆期と同じ状況が今、ミャンマーにあるのではないか、と感じたのは自分だけだろうか。
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世界最大の寝釈迦仏 |
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祈りと寄進 |
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瞑想する僧達 |
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瞑想の日課 |
ミャンマー旅行日記> モーラミャイン :
パアン
廣瀬 幸一
ミャンマー滞在2011年(平成23年)12月27日―2012年(平成24年)1月2日 |