■カレン州・パアン
4日目はカレン州の古都パアンに向かった。カレン州はかつて反政府の武装闘争が苛烈であったが、今はカレン民族同盟とは停戦となり、パアンとその周辺は平穏である。
カレン州は19世紀前半の 第一次英緬戦争 により 大英帝国 が侵攻し、植民地化された。意外にも、 イギリス時代も人々の信仰は自由であり、普通に、あるいは豊かに暮らしていたようである。
そのひとつの象徴が、パアン近くの百年以上前に建立された 、 マ・ハー・ティンドォジ
( Maha Theindawgyi )寺院で 見て取れる。ウー・ナー・アウッ( U Nar Aut )というこの土地の実業家により貿易が活発になり、この地域は多いに潤い、植民地でありながら彼により建てられたこの寺の壁面彫刻は日光東照宮を彷彿させるものがあり、その壮麗さは当時のこの地域の経済力を物語っている。
ツェカビンホテルは大きめのベランダ付きの洒落たバンガローであった。
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パアンのツェカビンホテル |
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壮麗な寺院 |
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寺の見事な彫刻 |
日本の中古車
走るクルマの多くはかつて日本で走っていたものである。中には数十年前にあったような時代ものも元気で動いている。ほとんどの車は大量の荷物をところ狭しと積んでいる。屋根に人が乗るのはあたりまえだ。クルマの屋根がきしむほど荷物を載せるので、日本から中古車を輸入後、サスペンションを独自に強化するとのこと。
日本車がこんなに重宝しているのを見ると何かうれしくなる。
日本人の旅はどうなっているのか
モン、カレン共に日本からの来訪者は極めて少ない。日本人、特に日本の若者が外国、しかも僻地に出向く傾向は減少の一途であり、さびしいと共にもったいない限りである。他ではどのような生活なのか、日本が豊かな生活にもかかわらず不安なのはなぜか、そもそも本当に豊かなのか、考えて損はないであろう。最近は若者特有のバックパッカーも見かけなくなった。その反面、物理的距離がはるかに遠い欧州からの旅行者をしばしば見かける。日本人の海外留学や海外での発表論文も大きく減少しているようである。つまり、日本人が内向きになっている、ということである。
1年前私は、バガンからミヤウの間に位置するチン族の村を訪ねた。これまで白人が2人来たことがあるが日本人が訪れたのは初めてだという。電気、ガス、水道なし、自動車はもとよりバイク、自転車すら乗り入れ出来ない自給自足の山間の村に1週間滞在した。普通の日本人にはショックが強く、お勧め出来ない行程であったが、人間の生活の原点を思い起こすには悪くない体験であると感じた。
元来、日本人は単独での行程をいとわなかった。海を越えた三蔵法師や空海、国内では、吉田兼好や松尾芭蕉が単独行脚したことがそれを証明している。貧窮することをいとわないのなら話は別であるが、今や諸外国との交流なくして日本が発展、維持出来る方策はない。ましてや、昨今の円高は我々の海外旅行を後押ししている。ミャンマーの人が日本を訪れるのは難しい。我々がミャンマーに来るのは、国内旅行より容易いともいえる。そんなアドバンテージを有難く受け入れるのが我々の責務でもあろう。
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訪問者は欧米人のみ |
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現地の人の中にヨーロッパからの人 |
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ミャンマー旅行豆知識
ミャンマー国内を動き回るときの必需品として、次のものがあるだろう。
懐中電灯:何と云っても電気が不安定であり、突然停電となるのは日常であるから夜間は灯りが必要である。草履:どこへ行っても靴より草履が適している。寺院やパヤーに入るときは必ず裸足である。乾電池式カメラ:充電式が我々の一般的カメラであるが電気供給の問題があり単3電池式がベターである。尤も写真を撮らない人は無用である。サングラスと帽子:強烈な太陽の下ではこれがないと苦しい。栓抜:ミャンマーに限らず、ホテルでは意外と備えていない場合が多いので、ビール党には必需品である。腹薬:日本食は原則食べることは出来ないので慣れない食べ物のため、腹の調子がおかしくなることがある。1年前は野生の地鶏や猪を口にして腹を壊したが、それを承知で現地のものを食べよう。
ミャンマー旅行日記> モーラミャイン : パアン
廣瀬 幸一
ミャンマー滞在2011年(平成23年)12月27日―2012年(平成24年)1月2日 |