「危ないぞ」「撃たれないようにな」との周囲の懸念をよそに、12月25日から15日間ミャンマー(ビルマ)を1人旅した。これまで訪れた五十ケ国にもなるであろう国の中でも今回私の受けた衝撃は特筆すべきものがある。日本の1.8倍の国土、多数の少数民族、5千万超の人口を有する軍事政権のこの国は先年の騒乱が記憶に残るのみで、情報は全く入らないといってもよい。
入国にはビザが必要である。品川のミャンマー大使館にての手続きは職業証明(雇用者は事業主証明)と毎日の行動予定を英文にての提出が独特なものである。尚、メデイアや報道関係者は入国出来ないことになっている。航空券は容易に取れたものの、ネットで申し込んだホテル予約がいくら待っても返答なし、やはり無理か、と案じつつも何とか準備を完了したのが出発数日前であった。
ヤンゴン空港は税関検査や荷物受取スペースがガラス壁を通して空港外部の路上から見える構造になっており、タクシーの客引きがこちらを見ながら待機している。空港からホテルまで広いが街灯が少なく暗い道路をかなり飛ばすので、運転席を覗いたところ何とスピードメータがゼロから動いていいない。シートベルトがないぞ、なんて問うべきことでもないようだ。ホテルから眺める市街の夜景は500万を擁する都市とは思えないほど灯りが少なく高層ビルは見あたらない。
この国は外国人が単独で行動するのは旅行慣れした者でもかなり困難である。たとえば汽車の時刻表、映画館の上映時間、バス路線図、レストランでのメニュー料金等多くの数字表記がアラビア数字でなく、ミャンマー数字である。更に、公定レートは実態とかけ離れたものになっているので両替は闇商人との交渉になる。1万円を出すと10万チャットの現地通貨をよこした。札束が多すぎて輪ゴムでくくってそのままポケットに入れるとあふれんばかりだ。タクシー、ホテル、大商店等しかるべき場所はドルが通用し、自国通貨よりドル払いのほうが安くなるのが普通である。通貨の力とはそういうものなのだ。
ネットで偶然に見つけた旅行代理店G&G社は完璧な日本語を使う現地女性ガイドを差し向けてくれた。BC585年を起源とする高さ99m、周囲400mのまばゆい金箔に覆われたシェッダゴンパゴダで強烈な小乗仏教の洗礼を受けたのを手始めに、市中を廻って最も目に付くのは、いたるところにある寺院や巨大なパゴダ(仏塔)での人々の敬虔な祈り、僧に対する寄進である。そう、ここは敬虔な信仰の国なのだ。後から振り返れば、各地でこれでもかこれでもか、と見せられたのは全て仏教文物であった。市街地を少し離れると、作業は動力機械でなく、日本ではるか昔そうであったように、牛馬が荷車を引き、地平線の向こうに山並みが続く広大な農地である。
忘れてはいけないのは国民の7割が農民であるこの豊穣の土地は食料が完全自給自足なのだ。古代より日々の食べ物に欠乏した歴史のないこの国に「飢饉」や「飢え」の概念はない。人々は真面目で穏やかであり、外国人に売値を吊り上げたり、危険や不心得を感じる場面はなく、家庭内暴力、親族殺人等はどこの世界の話か、となる。滞在中は兵士と警察官の姿を全く見かけなかった。
「ミャンマーに民主化を」は西欧流の明快な論理である。だが、論理や合理性が良い解決をもたらすとは限らない。英国による王政の廃絶と社会システムの破壊により、政治的安定を失った悲劇の歴史は今日に到るも暗い影を落としており、外国の影響を排除し半鎖国状態にあるかつての東南アジアの盟主は、植民地時代に受けた様々な悔しさと怒りを胸に、この200年の間に失った自分達の文化を取り戻そうとしているようにも思える。
因みにビルマとラングーンは英国が名付けた呼称でありミャンマーとヤンゴンは本来の名称の復活である。
30万人の軍隊を送り込み、18万人の兵士が死んだ日本も善悪両面で多いに関係がある。ミャンマーに幸あれ。
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