私の伯父の戸籍には「昭和19年10月30日11時30分ビルマ国ムーライク県シェヂシ東方1q付近の戦闘に於いて腹部銃創により戦死」と書かれている。戦死日に時分が書かれているのは珍しく、記録の確実性が高いと推定する。
戦後70余年経っても親族の誰もが現地を訪問したことはなかったので、同じ父親がビルマの「エナンジャン」付近で負傷し行方不明になった友人及びビルマ関係者合計6名で巡拝する企画を立てた。
ミャンマー巡拝のパッケージツアーは時々募集されるが、訪問先は主要慰霊地のみで、その他の戦闘地は選択可能でもオプションとして日時と費用がかかる。
同方面行く仲間はいなかった。
やはり戦死地が表記されていると出来るだけその地に近づき慰霊したいと思うのは自然であり、パッケージツアーの利用は断念しグループツアーを企画した。
「シェヂン」は現在の地図には見あたらず、当時の地図にも大まかな位置しか判らず、かなり苦労したがチンドウィン河に面するジャングルの中に同名の小さな部落の存在を旅行社から知らせが入った。
|
|
シェヂン |
「エナンジャン」の位置は油田という特徴があり容易に判明したが、戦友の報告と戸籍の戦死地の記載の場所が離れており、対象範囲が広く戦死地の場所を特定できなかった。
まず現地の旅行社をインターネットで検索し、いくつかの日本語対応できる旅行社の内から「G&G社」選んだ。初めての取引である外国の旅行社に委託し、高額の航空運賃やホテルの予約料など先払いしなければならないので選定は慎重を期した。何度かのメイルの交換と見積を得て巡拝ルートと価格を決定した。
訪問地は参加者戦死地「シェヂン」「エナンジャン」と日本人関係の多い「ヤンゴン」「マンダレー」「バガン」と決め、航空便と宿泊場所を絞った。時期は乾期を待ち忙しい12月、1月を避け2月に決めた。
地名は戦争中にミャンマー語をカタカナにしたもので色々な表現の違いがある。
「シェヂン」は雨期には道が車で通れず、乾期でもいくつかの橋の無い河をランドクルーザー2台で渡らねばならず、水深により左右され、車の調達の可否も不明であった。従ってボートを現地でチャーターするのが一番確実と判断した。
|
|
仏様に願い中 |
1日目は成田より全日空 1100 発 NH813 便を選びミャンマー首都「ヤンゴン」に夕方到着し、今回案内してくれる女性のガイドさんが出迎えしてくれて、シャン料理を賞味した後、「 Cherry Hill Hotel 」に到着、旅行社G&G社のオーナーの挨拶があった。
翌日の2日目には市内観光後に 1200 発のミャンマー・ナショナル・エアウェイズ UB603 便で「カレーミョ空港」に向かった。一日一便の小さな空港で「カレーミョ」の町は小さな地方都市という感じであった。
|
|
ミッター川の橋 |
「カレーミョ」の町を観光後に「 Majesty Hotel 」に1泊し、3日目には朝6時半にホテルを車で出発し、約1時間半で「カレワ」の町に到着した。「カレワ」の町は支流ミッター川がチンドウィン河に合流する商業活動の活発な町で河港があり、新しい橋が架かっており大きなパゴダも建っていた。私の伯父の任務は架橋すなわち川に橋を架けるのを軍務としていた。
|
|
カレワー、チンドィン川とミッター川の合流場所 |
伯父の戦死地は「シェヂン東方1q」とのこと。「カレワ」の港でエンジン付ボートをチャーターし、カレワ下流約8qの左岸「シェヂン」部落に向かった。河は穏やかであったがボートは今は懐かしい焼玉エンジンであった。途中2回エンストし漂流、とうとうギブアップ。救命胴衣を用意して貰ったのは正解であった。下流方向にしばらく漂流中に通りかかった船に曳航して貰いやっと目的の「シェヂン」部落に到着した。「シェヂン」とは砂金選別場の意味があるとのこと、船から砂金採りらしい機械が今も見え稼働中のようだった。
港付近は高床式の民家が点在し、新しいパゴダが建っていた。
|
|
カレワー、チンドィン川の日没
|
支流を1qほど遡り戦死地まで行こう思ったが水が少なくボートでの航行は不可能でシェヂン港より東に向かって約1qの大きな菩提樹を慰霊地と定め慰霊祭を行った。
戦死してから74年3ヶ月余りの親族との再会であった。花と果物、それに戦死者の生家から委託された白米、日本酒・日本の塩・日本の山の水、戦死者とその家族・親族の最新の写真などを供えた。参加者6名、ガイド、船頭、現地支援者など全員仏式にて同じように手を合わせて丁寧に焼香していただいた。
|
|
カレワのチンドウィン河に架かる橋 |
帰りには水牛2頭が引く荷車を用意してくれてジャングルの中ののどかな道を港まで送ってもらった。水牛は荷車を引きながらチラチラと乗っている我々を振り返った。水牛にとっても日本からの客は珍しかったのだろうか。
「カレワ」に戻り最近開通したカレワのチンドウィン河に架かる橋とパゴダを見た後に飛行場に戻り 1545 発エアカンボーザ K7-227 便で「マンダレー」に向かい「 Hotel Marvel 」に泊まった。
初めての地で小舟で回るという予定が立てにくい計画の日の最後に時間が決められている航空便の予定に入れるのは計画実行上の時間的にリスクの多いプランであり反省点である。
|
|
マーケット |
4日目「マンダレー」では日本軍人関係の碑が多くある「マンダレーヒル」「サガインヒル」などお詣りし「王宮」など見学後に 1735 発 Mann Yadanarpon Airlines 7Y-241 便にて「バガン」に向かい「 Bagan Umbra Hotel 」に宿泊した。
|
|
街の中を歩く象 |
5日目はバガンより第二の目的地である「エナンジャン」をめざした。その地はイワラジ河に面していてバガンから車で約80q約2時間半の場所で、戦争当時も油田があり戦略地点の一つであったところで、今でも油田の施設が稼働中であった。厚生労働省が紹介してくれた現地の「ユアジーピン村」の「ユアレ僧院」を訪ねると、日本軍人関係の碑が境内にあり、住職が歓迎してくれて見晴らしの良い「レイターゴンゲストハウス」のテラスに案内して戴き、住職の読経と供に焼香を行った。
|
|
慰霊祭の祭壇 |
戦死公報では更に40q南ほどの「ミンブ県」であるが明確な地点が判明せず、エナンジャン油田近くで負傷した兵がはたしてそこまでたどり着いたか疑問であり、生還戦友からの最後の消息地点の証言を信頼して、河を見渡す見通しの良いここを慰霊の地と定めた。
これで今回の巡拝旅行の2つの大きな目的を完了した。
|
|
バガンの人形劇 |
「 Bagan Umbra Hotel 」にもどり更に1泊宿泊した。 更に参加者のひとりの参戦し生還者の父親が戦後に巡拝しと思われるいくつかの日本人関係の碑やパゴダ・寺院もお詣りできた。
今回の大きな目標の慰霊巡拝には多くの人の協力のお陰で予想以上に順調に終わり、6日目はバガン観光に回った。
バガンには数千のパゴダが林立し、大きな涅槃仏が各所にあり、仏像の多くは金色に光り光背はLEDで七色に点滅し日本の仏像とは雰囲気がかなり違うが、お詣りの敬虔なる信者は仏前にひざまずき同じ仏教徒が多い日本人より心を込めた姿勢と動作であり、国民の古くからの仏教への信心深さを充分感じた。
|
|
ミャンマーの獅子舞 |
パゴダや寺院の敷地内や堂内はどこでも裸足であり、裸足で石やコンクリート上を長時間歩く習慣の無い我々にはつらいお詣りとなった。
最後にヤンゴンに戻り1日目と同じ「 Cherry Hill Hotel 」に1泊し、黄金に輝いている名高いシュエダゴンパゴダ、ヤンゴン巨大な寝釈迦像チャウテッジー寺院などお参りしヤンゴン観光を楽しみ、 2210 発の全日空 NH814 便で翌朝早く成田空港に無事到着した。
|
|
涅槃大仏 |
帰国後写真交換と旅行の反省のため従業員にミャンマー人が多く交通の便利な秋葉原の居酒屋に集合し、ビルマ巡拝の思い出を話し合った。わずかな覚え立てのミャンマー語が通じたのは楽しく嬉しかった。
|
|
シュエダゴンパゴダ |
企画してから実施まで約1年かかり、始めはほとんど情報が無く手探りの状態であったが、多くの協力を得て二人の参加者の親族の戦死地を特定し、現地慰霊が実現できた。また日本人関係の主要慰霊碑が集まっている墓地・慰霊地も数多くお詣りできた。
旅行費用は全て実費を参加者が公平に負担し飲食費・入場料・謝礼など現地経費を含め 1 人当たり約26万円であった。日本の旅行社に依頼せず現地旅行社に直接依頼したためかなり安くあがったと思われる。
多くのミャンマー人は仏教徒で日本人と国民性が似ており、大きな観光地以外は物売りも寄ってこず日本並みに安心して回れた。
|
|
日本人墓地 |
トイレはもっと汚いと想像していたがどこの観光地も綺麗に掃除してあり、気持ちよく使用できチップを上げた。
食事も食べられない物は無く味は日本の居酒屋程度を上回るレベルであった。
現地通貨はチャットであり日本ではほとんど交換できず米ドルにて持参したが、米ドルは新品か新品同様でないとダメで書込や皺があると中央銀行では交換してくれないため、店でも受け取って貰えないか、交換所で交換してくれても1割ほどレートが不利になったのは不便だった。
どこの国にもホームレスはいるもので、特に観光地では外国人にたかる者がいるものだが 1 人も見つからなかった。尋ねるとお寺で食事を施してくれてホームレスしなくても最低の生活はできるとのこと。さすが仏教の布施の精神が行き渡っていると感心した。
最後にこの巡拝旅行に協力してくださった官庁・旅行社関係者・ホテルの皆様・多くの戦友遺族・現地寺院の関係者・慰霊地の住民の皆さんなどに感謝の気持ちを伝えます。
ありがとうございました。
2018.5.3
相原公郎
|