日本帰りのビルマ人からたびたび聞くのが、鎌倉の大仏様の話である。私は奈良の大仏は高校の修学旅行時に見たことがあるが、鎌倉は行ったこともない。しかし、何人ものビルマ人が、鎌倉の大仏様のことをありがたく語る。故に鎌倉は東京在住のビルマ人の一大聖地になっている。ヤンゴンには、鎌倉の大仏を模した仏像を奉納されているパゴダもある。
パガンは、ビルマ族の王が11世紀に王都を開いた地で、13世紀までに5000基を数えるパゴダが建立されたという。今なお 2000基を超えるパゴダが、赤土の地に林立している。
このミャンマーの中央部で乾燥地帯のパガンと、遠く離れた鎌倉と、、、、どう繋がるのだろうか?
300年近く栄えたバガン王国は、1287年「元」モンゴル帝国の攻撃であっけなく滅びる。最後の王は、タヨーピィエー王という不名誉な俗名で歴史に名を残している。 つまりタヨー(中国、この場合元)からピィエー(逃げた)王という訳だ。その後この臆病な王は実子の王子に毒殺される。
そのころ鎌倉幕府も、元寇の脅威にさらされていた。文永の役(1274年)弘安の役(1281年)がそれである。弘安の役のモンゴル軍は14万人の大軍であったといわれている。2度とも台風が吹き荒れて、モンゴル軍の船団の多くが沈没し、鎌倉幕府は国難をからくも逃れることができた。が、その後鎌倉幕府も急激に衰退する。
北はモスクワ、西はヨーロッパのハンガリーやブルガリア、トルコ、東は韓国まで領土を広げたモンゴル帝国も、第5代クビライ・カァン王の死後ビルマからは、またたく間に撤退する。
故に、ビルマの国土にモンゴルの文化の痕跡はかけらも残されていない。しかし、パガンにビルマ族の繁栄は2度と再び戻ることはなかった。