ポッパ山の近くヤンゴンレストランで栽培しているドラゴンフルーツです。サボテン科に属して、日本ではピタヤと呼ばれていると思います。太陽に恵まれているポッパで栽培し、取立てのピヤタですので美味しいと思います。ビタミン、繊維、ミネラルを多く含んでいるポッパ産のピタヤは(1キロ/1500チャット)で売られています。
ヤンゴンレストランが所属している栽培は広くではありませんが、シャン州のヘーホー地区にも広く栽培しているようです。
カテゴリー: ミャンマーの旅
危険すぎる首都高速道路
ミャンマー新首都ネピドー「国会議事堂」
一般にネーピードゥ・ロードと呼ばれている、新しい首都に通じる道路なんで、首都高速としておこう。前にも友人が4台車の事故を見たと言っていた。何時も大ゲサな奴なんで、気にも留めてなかった。
今回の旅で、身をもって首都高速の恐ろしさを知った。ヤンゴンからピューまでは、早朝5時半出発で快適に時速100Kmから120Kmで飛ばして、わずか2時間でピューに到着した。ヤンゴン市外にある高速の入り口に行くまでに30分かかったが、それでも以前車やバスで行くと6時間以上かかっていたので、その速さに驚いてしまった。
問題は帰路だった。ピューから高速に入ると続けて2台、めちゃめちゃに壊れた車両が対向車線の端に横たわっていた。すでに人の気配はない。しばらく行くと帰路の道路で、ボンネットが全壊している車を通り過ぎた。けが人や死者が出ていると思うが、すでに何時間も前だったのだろう。
それで1年前か?日本人歯科医がこの道路で橋に激突して亡くなったニュースを思い出した。
雨も降ってるし、ドライバーにスピードを落として行くように何度も念を押した。 水牛を使って田植えをやってる村からいきなりコンクリートの高速道路である。
まず出発前日に、ドライバーが高速道はコンクリート道路なんで、タイヤを変えなくてはいけませんと言われて、日本から届いたばかりの車だが取り替えた。
ヤンゴンから新首都ネピドーへの高速ロード
パゴー山脈の丘陵地帯を一直線に伸びている高速道だが、いくつか小さな川があり、当然橋が架けてある。
全部ではないが一部の橋の幅が、車道の道幅の6,7割しかないものがある。また3車線あった道路が突然2車線になる場所が多数ある。 しかも、街灯はない。真っ暗闇の中で道の端を走行していた車の前に、突然道幅より狭い橋が現れたら、、、想像するだけで怖い。
そんな道をほとんどの車が時速160Km出して走行しているのだ。
あまりに事故や死者が多いので、アスファルト道路に変更するよう政府が動いているとドライバーが言っていた。
安全あっての便利さだと思う。 今ミャンマー特にヤンゴンは信じられないスピードで、発展を続けているが、この高速道のような発展なら考え直さねばならない。
街の記憶1 英国植民地時代のヤンゴン
パンソーダン通りを南(ストランド通り)に向かって撮影。英国時代に建造された壮麗な建築郡が今現在も、商業ビルや市役所の一部として活用されている。高い塔は港湾局。最近バスも新しいものが走行しているので、この写真だけでヤンゴンの街と分かる人はそんなにいないだろう。
1998年の3月から暮らし始めたヤンゴンライフも14年目になった。その間にもヤンゴンの街並みは、猛スピードで変化し続けている。NHKワールドプレミアを今年の2月まで受信していた。テレビばかり見ていて引き篭もりのような生活が続いたので、受信をやめた。
番組の中でブラタモリが秀逸だった。今の東京の街角を、江戸時代は明治の初期はどうだったかを、タモリが実際に路地を歩き、時にCGを使った再現映像で検証して行く、非常に興味深い番組だった。
このヤンゴンも特にダウンタウンと呼ばれる碁盤の目のような街並みは、英国統治時代に整備されたもので、ヤンゴン外大で2年学び、その後ロンドンで1年間留学生活を送った友人が、「変な話だけど、ロンドンってヤンゴンに似てる。実際は逆なんだろうけどね。ロンドンから来た人達が作り上げた街だから似ているのはあたりまえかも」と言っていた。
港湾局の建物を、ストランド通りより北に向かってシャッターを切った。最近減少してきたサイカーが客も乗せずに通っていた。
例えば、近所に新しいUNITEDショッピングセンターがオープンした。徒歩で3,4分なのでよく利用する。しかし、この場所に以前は何があったのか曖昧模糊で、どうしても思い出せない。人の記憶力とは案外頼りないものである。
ヤンゴン(ラングーン)の英国統治時代を記憶している人達も、今は随分高齢者になられているし、話を聞いても記憶がはっきりしなかったり、明らかに間違っている事もあった。
ミャンマーは、1826年 1852年 1885年、3回の英緬戦争を経て完全に英国領に併合された。
この壮大なアールデコ用式の建造物は、ヤンゴン管区の裁判所。写真は実は裏側で、正面からしか入れない。ストランド通りも、真横にコンクリート製の新ストランド通りが今まさに建造中。
スコットランド出身の技術将校アレキサンダー・フレーザーと医者のウィリアム・モンゴメリーの設計によりラングーンの街造りが始まったのは、第2次英緬戦争以後で、1860年頃には土地整備が整い、1892年下水道の完
成をもって、当時「東洋の真珠」と呼ばれたラングーンという都市がほぼ出来上がった。
今も英国時代に建造された、瀟洒で堅牢な建物が市内あちこちに散見される。
「スパ」イン バガン
文化遺跡のバガンにはスパやマッサージなどはホテル内でできるようになっています。ただし、最近で新しくオープンしたお店ではスパもできます。名前はBlossom Spaです、ニューバガンに位置しています。料金は、ミャンマー式マッサージは【15ドル/45分】、オイルマッサージは【25ドル/1時間】、アロマセラピーは【35ドル/1時間】、フットマッサージは【20ドル/1時間】となっています。
また、スパのほか「The Roasted Bean Coffee Shop」も「City Bar」もあります。さらに、夜には伝統的な踊りや操り人形のショーを鑑賞しながらお食事もできます。ミャンマー料理、中華料理、西洋料理、タイ料理とアジアンが注文できます。
住所:No(25), Thiripyitsaya Quarter, New Bagan
電話:061-65099
モーラミャイン観光その②
モーラミャイン・チャイカミー・セッセー・ムドン
モーラミャインから車で2時間位の距離ではチャイカミーと呼ばれるパゴダがあります。地元だけではなく全土でも有名なパゴダです。願いが叶いますので、信じ深く祈っているといわれています。海のほとりで建てられましたため、雨季では水に囲まれたようになってしまいます。乾季では陸上が半分になります。
チャイカミーパゴダ全体
写真に通り、丘からパゴダの全体を見えています。ベンチも置いてあるため、ゆっくり鑑賞できる眺めが非常に素敵です。参道が2つで上からも下からも行けるように作っています。下の方が海の波がやってきますので、濡れていますが、滑ってないように敷いておきます。
チャイカミーパゴダへ参道
チャイカミーパゴダの宿坊
10月、11月(ミャンマー暦によりタディンジュッ月)にチャイカミーパゴダ祭りを行っています。遠くからの参拝者が宿泊できるように宿も建てました。一部屋で1泊おを5000チャットです。
モーラミャイン観光その①
雨季の季節で旅行すると、シーズンではないため、飛行機が乗りたい間帯で確保が難しい、飛ばないことも心配している、等。客が集まらないため、バガンとマンダレー間の船が運航しません、等。移動物について頭が痛くなる。全ての問題を解決できるのは車の旅です。飛行機が飛ばないことも、水が少ないことも心配が不要です。
今回に行ってきましたモーラミャインやパアンの旅が完全に車の移動になっていますので、安心して観光ができました。
ヤンゴンからモーラミャインは車で5~6時間の距離です。モーラミャイン町が都会でもない、田舎でもない。山脈や山系に囲まれています。街中の道も上り坂と下り坂でなっています。ミャンマーでは金色のパゴダやお寺が多いと言ったら、モーラミャインを見て言っているでしょうと思うほど、ヤンゴンよりもキラキラしている参道やお寺が多いです。宗教深いと気がします。
観光場所として市内ではチャイタンラン、チャイマヨー、ガウンセーチョン(島)、パヨングー(洞窟)などがあります。市外へ行くと、タンピュザヤッエ、ムドン、セッセー、チャイカミーが観光できます。
写真がモーラミャインの周辺にあるチャイマヨーパゴダです。ミャンマー全土ではほとんどの仏像が足を組んで座っている形が多いですが、ここだけが珍しく足が下へぶら下げて座っている形になっています。
チャイマヨーの行く道がきれいですので、歌にもなっています。ずらりと並んでいるオウギヤシ、田圃、牛などが通って行く道を美しくさせています。
待望の雨が降った。
ミンガラバー
Bederです。ヤンゴンは炎熱地獄が続いています。
室温で35℃以上、深夜になっても温度は下がらず、外は日中は40℃を越す日々がここ1ヶ月以上続いてます。
ヤンゴンに暮らして13回目の夏(暑季2月~5月)ですが、これほど暑い夏も記憶に無いです。気象局の発表では、50年ぶりの猛暑だそうだ。
それで、1週間前から24時間エアコンが効いているホテルに避難してる。朝7時半、ホテルの窓を開けてみると今年初めての雨が降っていた。かなり激し降ったものの、僅か10分間で止んでしまった。
その後小雨が昼過ぎて少し降って、ヤンゴンの乾燥した木々も緑が雨を受けてみずみずしく輝いている。
雨が降ると開花するパダウの花も咲くことだろう。これが一時的な雨なのか、雨季の始まりなのか。もう少し様子を見ないと分からない。水力発電も水不足で停電が続くヤンゴン。電気の供給がまったく無い日もある。
早く! 早く!本格的に雨季になって欲しい。
国境の町タチレイ②
市場ではもっぱらタイ語 時に中国語 シャン語 しかし、ほとんどミャンマー人なので、ミャンマー語も通じた。看板は、ほとんどミャンマー語 タイ語英語3ヶ国語の表記
タイのバーミーナーム 35バーツだった。味付けは、テーブルの上にあるさまざまな香辛料、醤油、砂糖などを使って自分の好みに出来る。
タイレイは、タイのメーサイからサーイ河をはさんで向かい合っている。タイ側からは、外国人でも午前6時から夕方6時までミャンマーに入国できる。(パスポートを預けるなどの多少の手続きが必要)
実際に、Gateの役人に尋ねてみたが、ミャンマーの方からは出来ないようだ。(これもある時期は出来るとか、色々さまざま変わるようである)
G&Gに頼まれていたので、タチレイにあるホテル6,7軒リサーチしたが、どこもタイバーツでの支払い。電話番号もタイ国の番号(66)とミャンマーの電話(95)を併用している。ほとんどのホテルがタイ人オーナーのようである。
しかも驚くなかれ、停電がない。ヤンゴンでは、毎日の停電に悩まされているので驚いた。多分タイ側から送電線を引いているのだろう。何せ河1本で隣国タイである。
町はまるで建物をはじめタイの一地方都市である。通貨もバーツである。1000人いるというオートバイタクシーは、かろうじてミャンマーksも受け取ってくれたが、市場もタイバーツが主流。商品もタイ製品のオンパレード。 2006年の暮れに行った。中国との国境の町ムセと、2大国境貿易の町になっている。
2009年にモーラミャイン・パーアンなど南の方を訪れ、やはりタイとの国境貿易の町であるミヤワディに行きたかったが、ここは外国人は入域出来なかった。タチレイの話に戻る。 それで、タイ側メーサイから入ってきた外国人は、タチレイのみを見て「ミャンマーって、タイと全く同じ」という印象を持つと思う。
町にはこれといって景勝地があるわけではない。ヤンゴンにあるシュエダゴンパゴダと同じ名前の金色のパゴダが丘の上にそびえている。後マンダレーにあるマハムニパゴダと同じ名前のパゴダもあった。
車も多く活気がある町で、シャン州では、州都のタウンジーやラショーなどより町はるかに大きい。同じ国境の町ムセよりも大きい印象を受けた。
国境の町タチレイ①
オートバイタクシーの後部座席から撮影。シュエダゴンパゴダ。
まるでタイの地方都市とそっくりタチレイの町並み。
海抜1200米のチャイントンから、バスに乗ってタチレイまで4時間半かかった。車で行くと3時間でいける距離だが、2回休憩が入り、4回くらい小さな町に着くたびに、スペヤーと呼ばれる車掌が各事務所に乗客名簿のコピーを提出していて、時間がかかった。
バスは結構ちゃんとした大型バスで、出発時間はチャイントンからの午前8時と、正午の2本のみ。出発2日前に朝の座席を購入していたが、外国人はイミグレーションの手続きがあるので、1時間前に来てくださいといわれ、そうなると6時起床で行かねばならないので、翌日に正午のほうに変えてもらった。
ローカルの料金の2倍1万ks支払った。車掌が近くにあるイミグレーション事務所で代行してくれるので、自分は近所のサテンでお茶していた(バスチケット イミグレーションともにサンユエゲストハウスの斜め前にある)
チャイントンの温泉のことを書いたが、ここに行くのに小さな橋を越える。警察か?軍人?が詰め所にいて、オートバイタクシーで行ってるのだが、ドライバーも客も歩かなければならない。何を警戒しているのだろうか? 又、この橋は午後6時から午前6時まで閉鎖される。したがって、温泉は、夕方5時半くらいまでの営業になるだろう。
バスでチャイントンを出た時も、道に大きな鉄条門があって、道路は午後8時から午前8時まで完全に閉鎖されているようだ。そんな中タチレイに到着した。チャイントンに比べ暑い。
避暑地チャイントン②
ラフー族の村。わりに低地の村で、大きなキリスト教会があり、若い娘さんなどは民族衣装を着ていない。
アカ族 チャイントンの市場で見かけた。他にも市場ではたくさんの民族の人たちに会うことが出来る。
エン族の村長の妻。コーン(噛みタバコ)の長年の習慣で、歯も唇も黒くなっている女性が多い。
エン族の集落。もちろん電気は来ていない。
2日目の夜、激しい雨と落雷が2時間も続いた。山に囲まれたこのチャイントン全体を震わす、実際木造で出来ているホテルが地震のように揺れていた。
3日目は快晴であった。7年前にも行ったことがあるミャ・シュエ・イー温泉に行った。温泉はこれまで、インレー湖、コータウン、ラショー、ダウェーなどでも入ったことがあるが、ここの温泉が一番気に入っている。
4日目は、トレッキングガイド雇って、ラフー族、アカ族、エン(イン)族の村をめぐった。エン族の村長の家の壁に「日本のグループツアーで初めてこの村を訪れた**グループ」と総勢10名くらいの名前を書いた紙が貼ってあった。
5日目は、ゆったりと小さな静かな町を歩きまわって、午後は読書で過ごした。インレー湖がすごい人気になっているが、チャイントンはまだまだ観光ずれしてなくて、静かでのんびりしていて、私は勝手に「ミャンマーのスイス」と呼んでいる。インレーで失われつつある「豊かな田舎」がここチャイントンにはまだまだ残っていると感じた。