ナントウン湖 チャイントンで一番の景勝。小高い丘の上に立像の仏像が湖を目指して指差している。マンダレーヒルに立つ仏像のぱくりと思われる。
白壁にいい色合いの瓦、素敵な時代がかった家が多い。
それらの家の屋根に使われている出来立ての瓦。
ヤンゴンの暑さを逃れて、チャイントン5泊タチレイ2泊の旅に行ってきた。(2010年 3月29日~4月5日)G&G旅行社に無理を言って、とにかく直ぐにエアーチケットを予約してくれと頼んで3日、キャンセル待ちのチケットが取れて、思い立って3日で急遽旅に行くことにした。
チャイントンへの飛行機は、ヤンゴン→ヘーホーここからマンダレー→タチレイ→チャントンと各駅停車のローカル線で4時間半かかった。
チャイントンは前日に雨が降ったそうで、ひんやりと涼しい。ヤンゴンでは連日猛暑と停電が続いていることを思うと、同じミャンマー国内なのにコウも違うものかと驚きを覚えた。
チャイントンは実は7年前にも1度来たことがある。町を歩くと、タイ風の華麗な建物が増えてきている。
つぼ等の焼き物を作ってるという工房(ただの民家)が4,5軒ある地区に行った。陶器を期待して行ったが素焼きのつぼであった。ヤンゴンから河を越えダラー地区から40分のトンテイでも同じような物を見ることが出来るので、ガイドに直ぐに次に行くように言ってる時だった。
これが「かわら」ですと素焼きの小さな板状のものを示しされた。チャイントンの緑に映える白壁の家々の屋根が素敵な色合いで、アレは木の幹の皮かなんかで出来てるのかしらと以前から思っていた疑問が解消した。
瓦は出来立てはレイガ色している(レンガと同じ材料工法で作るので、同じで当たり前なんだが)、それが屋根に葺かれて、雨風に打たれて1年もすると、あの素敵な濃い茶褐色の瓦の風合いになるのだ。
カテゴリー: ミャンマーの旅
2010年 初旅行 (マグウェからネーピードゥ他)
シュエセッドー・パゴダがある川原に1年に数ヶ月だけ出現する幻の町
タウンドゥインヂーにあるヤカインパゴダ 修復中で、すでに70メートル以上ある。ここまで高いパゴダは、パガンにも存在しない。又時代もパガンより古い
2世紀から4世紀にかけて栄えたピュー族のベイタノー遺跡
5泊6日のミャンマー国内旅行から戻ってきた。2010年度の初旅行になる。
今回の旅行はヤンゴンを基点に、ミャンマーを上空から見たとして、マグウェを西にネーピードゥを東に逆三角形になるコースを時計回りに回った。
マグエ→ベイタノー→ネーピードゥ
↑ ↓
ヤンゴン
ベイターノの東に、タウンドゥインヂーという古い町がある。この町にも修復中(2012年完成)の巨大パゴダがあった。歴史的にも規模的にもミャンマー有数のパゴダである。
偶然立ち寄っただけだが、修復現場の役人に話を聞くと相当古いヤカイン族のパゴダで、これまでに本やガイドブックでも取り上げられたことがないと思う。
ココからネーピードゥまではなだらかな低い山を、少し上っては少し下り、右に左に回りながら4時間山中をジープで巡りながらたどり着いた。
マグウェからだと西から東に、ネーピードゥまで6時間の行程である。
今回の目玉というか目的は、ビルマ族がこのミャンマーという土地に出現する以前に栄えたピュー族の遺跡ベイタノー(2世紀から4世紀)に行くことだった。
同行者の友人(ジープの持ち主で運転者)の好意で2日間にわたって、この遺跡に行けた。
又去年の10月に行ったばかりのマグウェだったが、4日間滞在して町を回ると、以前は小さな町という印象だったが、ぐるぐる回るとかなり大きくて、ネットカフェが15軒、経済大学以外の大学は全部あるという大きな学園都市であることも分った。
やはり1度来ただけで、すべてが分るわけでもないし、通り過ぎただけの旅行記がよく間違いだらけなのは、その辺に原因がある事も今回痛切に感じた。
ミャンマー人が一生のうちに一度は行きたいシュエセッドー・パゴダも、前回10月には無かった川原に幻の町が出現していた。
祭りは3月と聞いていたので、何も期待しないで友人が行きたいというので同行しただけだったが、祭りは1月17日から5月まで開催されとかで、祭りまで1週間というので、すでに来ている参拝者もいた。
その祭り期間中は1万人の町になるという「幻の町」が川原に建設中だった。長さ15メートルほどの橋も4箇所すでに造られている。
そして祭りが終わるとすべて取り壊される。故に期間限定の「幻の町」といわれる所以である。きちんとした計画もしないで行った旅だったが、思いがけず収穫の多いものになった。
詳しくは、ゆっくり報告してゆきたい。
カヤー州ルインコー(ロイコー)3 タウンクウェ・パゴダ
ホーヂィ僧院
タウンクウェ・パゴダ
タウンクウェ・パゴダについて、何も触れていなかった。多分カヤー州でもっとも有名なパゴダである。ミャンマーの国営テレビで何度か見ていた。
岩山にたくさんのパゴダが美しい。
訪れたのが、ロイコー滞在2日目午前10時くらいだったか、ちょうど逆光線になって、パゴダが美しく撮れなかったのと、前にも述べたが頂上にある大きめのパゴダが筵をかけて修復中であった。
それでも、このパゴダは十分に美しかった。小さな岩山の頂上に小さなパゴダが8,9つ建立され(スミマセン正確に数えていない)それぞれのパゴダまでとパゴダとパゴダを繋ぐ階段や小道は、御影石で飾られていた。
後で知ったことだが、この地では御影石も産出するそうだ。タウンクウェとは山(タウン)分ける(クウェ)と言う意味になる。それをシャン語で山(ルイン)分ける(コー)ロイコーとなるわけである。
イギリス統治時代に、シャン州は30数名の藩侯(ソーボワ)がそれぞれの領地を治めていた。ここカヤー州もソーボアがいて、ソーボアのお屋敷跡が、ホーヂィ僧院になっていた。
このお屋敷は1912年に創建され、1959年に、ソーボア制が廃止になると、 最後のソウボアの家族は海外に移住し、お屋敷は僧院に寄贈されて今日に至っている。
館内に最後のソーボアとその妻の写真が残っていた。 大変な美男美女である。今その家族子孫達は、 どこの国でどのように暮らしているのだろうか?
その最後のソーボアの祖父が1895年建立したのがタウンクウェ・パゴダである。この州の名前にもなる記念すべきパゴダである。
カンボーザバンクと言う銀行がある。8.9年前よくテレビのCMで流れていたので、名前だけは知っていた。 このカンボーザこそシャン州国を表す言葉で、シャン州の州都タウンジーに、ソーボアの子弟が通うカンボーザ・スクールがあったそうである。
外国から教師を招き、生徒達は英語ですべての学課を学んでいたので、家庭ではシャン語、学校では英語、ビルマ語が一番できなかったそうである。
それと江戸の大名屋敷のように、それぞれのソーボア達は、領地のお屋敷の他にタウンジーにもそれぞれお屋敷を持っていたとガイドさんから聞いた。
シャン人は、タイ語や中国語も話せる人も多く(タイは昔シャムと呼ばれていた、これはシャンに同じで、もともと同じ民族と言われている)、上記にあるようにシャン語、ビルマ語、英語と語学にすぐれ、又商才があるな人が多いように見える。
シャン州やソーボアに興味がある方は、「あるシャン藩王女の個人史」とサブタイトルが付くネル・アダムス著「消え去った世界」文芸社をお読みになることを強く勧めたい。
50冊くらいミャンマー関係の本を読んだ事があるが、この本はもっとも感動した一冊になった。カヤー州の話なのに途中からシャン州の話になってしまった。重ねて御免。
インレー湖の観光
今回初めて、インレー湖の南部からインデインパゴダに行った。インレー湖の観光で一番すばらしかった。最近欧米人に人気が出てきているそうだ。改めてインレー湖の観光を見直してみた。
《5日ごとに開かれる湖上の市》
インダー族の湖上の住まいと、足でこぐ小舟。
以前はインダー族の日常の市だった。今でも油を売る小船や日常雑貨を売る船もあるが、多くは外国からの観光客向けのお土産を売っていて、これがかなりうるさい。
小船を作る工房 ハスの糸で布を作る工房 銀製品の工房なども興味のある人には楽しい。特にハスの茎の繊維で布を作るのは世界中でここインレーにしか無い。蓮の布は、又後日書くかも?どうして始まったのか推理小説のような話があるので。
《猫のジャンプで有名なガベーチャウン僧院》
2004年に行った時の、まだお坊さんが見せていた頃。猫はすでに肥満していた。
この寺には、1997年 20004年 と今回3回行った。はじめて来た時、猫のジャンプが有名になったばかりで、しかも、ガイドさんの説明では、日本人のカメラマンが撮った写真でこの寺の「ジャンピングキャット」が知れ渡ったと言う説明だった。
お坊さんが観光客に仏教の話など、英語で説明して。口笛を吹くとやせた精悍な猫が10数匹集まってきて。坊さんが掲げた直径20センチばかりの輪をジャンプして通りぬけるのだ。
2004年に来た時、観光客が4倍くらいになっていて、大勢の見物人の前でお坊さんが、猫の芸を見せていた。猫達は芸をした後にエサが与えられるので、すっかり太っていた。又えさをめぐってケンカするのもちょっと嫌だった。
2009年12月今回、この間に1,2年「もう芸を見せてはいけない」という噂を聞いていた。それでか?坊さんではなく女性が、観光客が集まったら猫を呼び集め芸を見せていた。猫はますます怠惰に太り、ただの見世物になっていた。
《パァンド-ウ・パゴダ 》
パァンド-ウ・パゴダ 水の都イタリアのはベネチアの寺院を思い出す。
ファンドーウとガイドブックにはなっているが、スペルからも、ガイドさんの発音からも私にはパァンド-ウに聞こえる。
壮麗でヴェネチアの寺院を思わすパァンド-ウ・パゴダ由緒ある仏像5体が、長年金箔がはられつづけて、金のダルマのようになっている。
毎年9月10月に(独特の暦を使うので毎年開催日が違う)湖上を巡る祭りがある。5体の仏像をカラウェー(伝説の鳥ヒンダー)をかたどった船で、インレー湖畔にある村を巡る。
いつもはこの5体の仏像パァンド-ウ・パゴダの2階の大広間に安置されている。自由に男子のみ金箔を貼ることができる。
マンダレーのマハムニパゴダ、チャイティーヨーのゴールデンロック、ザルンの仏像すべて男子のみで、女性はそばに行き触れる事すらできない。日本でも相撲の土俵は女性は登れないね。インデンパゴダのことが次回にする。
ミャンマーのビーチリゾート
ガパリ・ビーチの有名な人魚像
人気があって有名なビーチは、ヤカイン州とエーヤワーディ管区のベンガル湾に面しています。
ガッパリ・ビーチ
ヤカイン州 タンドウェ空港から車なら10分15分で行けるガッパリ・ビーチで、外国人向けの高級リゾート地です。すばらしいホテルが軒を並べています。 イタリア人がナポリに似ていると言った言葉がガッパリの名称になったと言われています。 砂浜 海水とも最高に美しいです。
海岸に有名な人漁の像があります。ヤンゴンからのアクセスは飛行機利用が一般的です。欧米人が多く、ミャンマー人はほとんど見かけません。
もう一度行きたいチャイントン(シャン州)
温泉 個室でお湯に入るバンガローが繁盛していた。
オートバイを改造した3輪車 トンベインカー 三(トン)輪(ベイン)車(カー)
民族衣装のアカ族
先週 カヤー州ルインコーに行ったことで、ミャンマー国内全7州全7管区すべて足跡を残した私だが、まだまだ行ってない場所も多い。プータオ、インドージ湖 ビクトリア山、など今後の課題である。
よく人様から尋ねられるのが、「どこが一番よかったですか?」と言う質問である。1番を決めるのは非常に難しいが、もう一度行きたい地は チャイントンだと答えている。英語表記ではKengtungであるが、ミャンマー人の実際の発音は、チャイントンと聞こえる。
チャイントンは、有名なパゴダがあるわけでもなし、パガンのように歴史的建造物もない。景色にしても、チャイティーヨーやインレー湖のほうが、はるかに美しいかもしれない。少数民族を尋ねるトレッキングもカローを超えるものがある訳ない。
なのに、なぜ心惹かれるのかよくわからないが、、、ずいぶん前に失われた日本の田舎の風景を思い出させるからかもしれない。
トレッキングで、アカ族やアミ族を訪ねたが、ヨーロッパの女性が、アカ族の家まで入って見ていたが、先日のパラウン族(首長族)の家でも、「家の中見れますよ」と言われても、やはり他人のプライバシーは覗きたくない。それで、チャイントンでも6村行く予定のトッレッキングを2つの村で終わりにしてもらった。
このあたりの農家の家が日本の田舎の農家の造りに(昭和30年くらいの)、似ているのに驚いた。チャイントンに伝説が残っている。
300年くらい前だろうか?ビルマ軍によって破壊されたタイのアユタヤの日本人町(人口8000人)から逃げてきた倭人(日本人)150名ほどが、このタイとミャンマーの国境あたりに落ちのびて来たそうである。
倭人は礼儀正しいし教養もあったので、村の長が大切に保護し、村の娘達と結婚して定住したという。今でも日本の文化のいくつかが残っていると言う。あくまでも伝承でしかないが、ありうる話であると思う。チャイントンの市場で、黄粉 豆腐 こんにゃく、納豆なども売られていた。
忘れてはならないのが、温泉もある。 町から30分くらい車で行ったところに良質の温泉が沸いている。温泉は、ラショー、インレー湖、南のほうではタトン、ダウェー、コータウンなどの温泉にも入ってみたが、チャイントンの温泉が一番よかった。 又、施設としてもしっかりしていた。
カヤー州ルインコー(ロイコー)2 少数民族 (2)
ミャンマー全土の少数民族は、130とも135族とも言われています。私が実際に会って確認した民族は、25種族くらいです。
シャン州のラショーなどの朝市に行くと、たくさんの少数民族に出会えます。又、チャイントンやカローなどでは、少数民族の村を歩くトレッキングなどもあります。
パダウン族(首長族)
話は、先日行ったカヤー州のロイコーに戻って。友人から「もっとロイコーのことを書いてほしい。ロンリープラネットにも載っていないので、貴重だよ」とメールが来たので、少数民族パダウン族の村に行った事を書いてみよう。村の名前はサンポン村といい、ロイコーの中心から15分くらいで到着。その先は入域規制地区で、外国人はロイコーまでの許可を取っていても入れない。
写真の女性2名は50代から60歳代で、20から25連ある金色の(ブロンズ製)の首輪をはめている。寝るときも体をい洗う時もはずさないらしい。首輪と首の間に手を入れて器用に首を洗うと説明してくれた。5歳から首輪をつけ始め、最初は3連とか5連とか、大人になるにつれて首輪の数が増えてゆく。
ガイドさんとパダウン族(首長族)の女性
家には15歳のかわいらしい少女もいたが、この子は首輪をしていなかったし、この2名の女性を含み8名だけが首輪をしているらしい。ガイドさんが、「ありがとうございました」と言って、3名に2000KSづつ上手に撮影代を支払ってくれた。(写真は2名だが、3名撮影させてもらったので)
マンダレーを基点に、、、
ウペイン橋 200年前に作られた木製の橋、全長1,2km。
タウンボーティパゴダ まるでカラフルなケーキのよう。
ミングン(マンダレーの北部 船で1時間)のミングンパゴダ完成していたら世界最大のパゴダにになっていたでしょう。
マンダレーは、ミャンマー第2の大都市だが、よくガイドブックには日本の京都に例えられる。確かに碁盤の目のように町割ができていて、南北の通りの番地と、東西の通りの番地で場所を特定できる。しかし、ビルマ族最後の王都だったマンダレーは、実際に王都だったのは、わずか20年くらいのもので千年の都の京都に比べるべくもないと私は思う。
又、マンダレーヒルと、マハミャムニ・パゴダをのぞくとさほど見所もない。しかし、マンダレーを基点に、近隣地区に景勝地が点在している。アマラプラ、インワ、サガインヒル、モンユア、ミングン、パッコック、ピンウールインなどがそれである。
簡単に見所を述べると、
《アマラプラ 》
1,2kmも続く木製の風流なウペイン 橋が有名。
《インワ》
400年王都があったという割には、2,3の遺跡しか残っていない。地震で傾いたミャンマーのピサの斜塔、マハーアウンミェ僧院、チーク材で建立されているパガヤー僧院
《サガインヒル》
緑の丘に白いパゴダ群が美しい。 日本人戦没者をまつった慰霊塔も、他のパゴダの間にいくつか立っている。
《モンユア》
不思議なお菓子できたようなカラフルなタウンボーティパゴダ。チャウッカ村には大きな寝釈迦とその後ろに巨大な立像が完成したようだ。
《パコック》
バガンから船で行くこともできる。パガン時代からの古びたパゴダなどがある。
《ピンウールイン》
英国時代に避暑地として発展した、ミャンマーの軽井沢。花や洋館が多い街を華やかな馬車に揺られて、、、市内観光。洞窟のパゴダや中国に行きたくなかった仏像などが有名。歴史が100年を越すホテルもある。よく映画の撮影などに使われている。
インレー湖でマッサージNO1に会う!
旅行に行く前に、G&G旅行社から、「インレー湖ニャウンシュエに、ものすごく上手なマッサージがありますから、写真とってきて下さい」G&Gの客人のお一方が、ヤンゴン、マンダレー、パガンとマッサージしてもらったが、ここニャウンシュエが一番だった。」と言ったそうである。
しかし、場所が「え~っ」という感想だったらしい。その「え~っ」の意味が何なのか?がわからない。ちょっといかがわしい感じなのか? 汚いのか? うるさいのか? マッサージの場所としてふさわしくないのか?
宿泊したアメーズィング・ホテル(小型ホテルだけど、清潔でサービスが行き届いていた)のすぐ裏通り徒歩で5分くらいの場所にあった。Photoにあるように、「Massage Win Nyaunt」と赤と黄色の看板ですぐわかる。
インレー湖のニャウンシュエにすんでいるが、ビルマ族で37歳、子供は3人。兄の子供も3人計6人の子供が庭で遊んでいる。場所は、ビルマ的には普通の家で、カーテンで仕切られていたり、マットの上の白いシーツも清潔だし、何をもって「え~っ」なのかは?ちょっとわからない。
その客人もアメーズィング・ホテルに、宿泊していたらしいから、あのホテルと比べると、それは「え~っ」となるかもしれないが、私には快適な場所だった。マッサージは小1時間であった。
噂にたがわず「うまい」。そして「独特」の「リズム」がある。ミャンマーの伝統的なマッサージだと、ウィンニャウン君の説明である。「君のマッサージが一番よかった」と言う上記の客人の話をしたら、非常に喜んで彼は、手もよく動くが、口も饒舌だった。
2週間くらいの期間で講習会などもやっていて、韓国人、イスラエル人オーストラリア人などが習いに来たと得意げに話していた。1時間で5ドルまたは5000ks。インレー湖で体が凝ったらお試しあれ。
バガンと鎌倉の間
日本帰りのビルマ人からたびたび聞くのが、鎌倉の大仏様の話である。私は奈良の大仏は高校の修学旅行時に見たことがあるが、鎌倉は行ったこともない。しかし、何人ものビルマ人が、鎌倉の大仏様のことをありがたく語る。故に鎌倉は東京在住のビルマ人の一大聖地になっている。ヤンゴンには、鎌倉の大仏を模した仏像を奉納されているパゴダもある。
パガンは、ビルマ族の王が11世紀に王都を開いた地で、13世紀までに5000基を数えるパゴダが建立されたという。今なお 2000基を超えるパゴダが、赤土の地に林立している。
このミャンマーの中央部で乾燥地帯のパガンと、遠く離れた鎌倉と、、、、どう繋がるのだろうか?
300年近く栄えたバガン王国は、1287年「元」モンゴル帝国の攻撃であっけなく滅びる。最後の王は、タヨーピィエー王という不名誉な俗名で歴史に名を残している。 つまりタヨー(中国、この場合元)からピィエー(逃げた)王という訳だ。その後この臆病な王は実子の王子に毒殺される。
そのころ鎌倉幕府も、元寇の脅威にさらされていた。文永の役(1274年)弘安の役(1281年)がそれである。弘安の役のモンゴル軍は14万人の大軍であったといわれている。2度とも台風が吹き荒れて、モンゴル軍の船団の多くが沈没し、鎌倉幕府は国難をからくも逃れることができた。が、その後鎌倉幕府も急激に衰退する。
北はモスクワ、西はヨーロッパのハンガリーやブルガリア、トルコ、東は韓国まで領土を広げたモンゴル帝国も、第5代クビライ・カァン王の死後ビルマからは、またたく間に撤退する。
故に、ビルマの国土にモンゴルの文化の痕跡はかけらも残されていない。しかし、パガンにビルマ族の繁栄は2度と再び戻ることはなかった。