朝5時出発でピューに行く予定だったが、ドライバーの嫁が急病で延期になった。先日行ったのがピュー族の遺跡の町ピー。今回はピュー族とは関係ないピュー町。朝からの激しい雨で道路が池のようになっている。30分で引いたが、、、。。
翌日 早朝5時半出発で、雨の中
ネーピード・ロード(首都高速)を北に走らせて
ピューに到着、そこからから東に向かいシッタン川のほとり、
ミャンマーでは2期作はあたりまえ、田植え真っ最中の田園風景。ヤンゴンを少し離れるだけで、不動産高騰、自動車狂想曲もなく(少なくとも表面では)、人々は落ち着いて営みを続けていた。最近の記事でヤンゴンは世界の35位の物価高の都市だとか、住みにくい都市に変身中。
ヤンゴンから少し離れると、空気が違う、風が違う、そして水牛もよく見かける。
中国製のトラクターも入ってきているが、、、
水牛 ジュウェー ねずみ チュウェッ
この区別も私には未だに難しい、、、
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田舎の結婚式 (2)
新郎の姉のマ・ユーが、ヘヤーとメーキャップを担当。見違えるほどきれいだった。
新郎の離婚した両親との写真
20歳の新郎 21歳の村の小学校の先生の新婦。美男美女のカップル。
村はずれに古いパゴダがあった。その塀の上に小さな人形が数体置かれていた。ナンか鄙びた人形でかわいらしい。
イェチーの隣町、ガテインチャウンの町にあった中国寺院。道教なのか? 大きな布袋さん(禅僧)の金の像があった。その足をさすって願い事をすれば、叶うそうだ、、、どう見ても仏教でない。米の集積、外国への出荷を牛耳っていたのは、今も昔も中華系の人達である。
結婚式は午前9時から11時までなので、それまで隣町のガタインチャウンに車で行った。中国寺に案内された。道教の寺のようである。布袋さん(本当は禅の僧らしいが)の大きな金の像があった。
何でもこの像の足の指に触ると、願い事が叶うとか? 現世ご利益、中国商人がいかにも好みそうな布袋像であった。
英国統治時代以前のエーヤワディの平野は多くはジャングルだったと聞いたことがある。それを開墾し耕地にして、この平野はミャンマーでも有数の一大稲作地帯に成長した。
米の集積、そして海外への貿易は当時中国系の商人が牛耳っていたので、その財を成した中国人が、この寺も建立したのだろう。さて、19日村の結婚式当日である。平日だというのに、大勢の人がお祝いに駆け付けていた。
前日から、親戚や近所のおばさんたちが料理の準備をして、全て手作りのもてなしである。
会場では1名カメラマンを呼んでいたようで、大型カメラで撮影している人がいた。私も3台カメラを持ってきていたので、たくさん撮影したが、新郎新婦の撮影で思うことがあった。
まずは新婦の両親との撮影、父親があまりに若いので、父親は亡くなってお兄さんかな?と思っていると、サルが小さな声で「2番目の父親」とささやいた。
母親より10歳は若そうである。母親も日々美しく成長していく娘と若い夫に焼き持ちしていたかもしれないし、新婦の娘さんも、そんな息苦しさから離れたくて、結婚を急いだのかもしれないと勝手に想像していた。
田舎の結婚式 (1)
元気な村の子供、都会の金持ちの子供はたいてい極端に肥満児が多い、
ここではそんな不健康な肥満児は見なかった。
2011年があと10日ほどで終わろうとしている。12月18日の朝5時半出発で、エヤーワディ管区のイェチー迄スタッフの弟の結婚式に参列するために行ってきた。
ヤンゴンに住み着いて14年間に結婚式に招待されることが多く、多分30回くらいは出席したと思う。今年は3つ目の結婚式で、11月6日に同じマンションの車のタイヤ販売会社社長の息子さんの結婚式が、トレーダーズホテルで豪華に執り行われた。
11月20日に、やはりうちのスタッフの男子が、タンピューザヤッ(タイ緬鉄道で有名な、モーラミャインの南)で、同業の美容師と結婚し、結婚後はその女性の父親〈ゴム園を経営)がスポンサーで、当地で美容院を2人でやってゆくそうである。
母親の家、竹で出来た家。屋根や壁は5年に1回張りかえるそうだ。涼しい。
そして今回今年3度目の結婚式。10月に日本に戻って「逆流性食道炎」と「胃潰瘍」の治療を途中でこちらに戻ってきて、加えて風邪をこじらせているので、行くのを迷ったが、田舎のきれいな空気を吸った方が回復に向かうんではないかと、スタッフのサルの運転する車で、サルの奥さんのマ・ユーの弟の結婚式に出席する事にした。
村の橋、この川の橋が天の川のように、花嫁と花婿の村を
つないでいる。川面にたくさんのベーダーパン(ホテイアオイ 浮き草)が咲いていて、川魚を取っている人もいた。
イェチーには初めて行く、ヤンゴンからバテインに向けて2時間くらい走行して、ニャンドンのボンミャトン大橋を過ぎジャウンゴンから北に向かい更に2時間以上で、それほど大きくない町イェチーに到着した。もう少し北に行くとヒンダターという大きな町がある。
「バスが宅配業者?」
宅配便などミャンマーにはない。
だから最近日本で起きた「元厚生次官夫婦殺傷」のような陰惨な事件は起こりえない。またヤンゴン市内の中流家庭では、お手伝いさんがいるのが普通で、すぐに奥さんが外から来た人に応対しない。また、大体ドアは2重になっている。昼間女性だけの所帯など、鉄格子状のドアはロックされた状態で、木製のドアを内側に開ける。うちもその様な構造になっている。
話を、宅配の荷物の事にもどす。1週間ほど前に、日本に住む友人のWから郵便小包が届いた。私宛の品物ではない。 W君はヤンゴン外国語大学で、3年間同級で、まじめでミャンマー語が上手い優秀な好青年だった。時々メールが届く。 6月に結婚したようだ。その結婚の写真をヤンゴン外大でお世話になったT先生(女性)に、送りたいというメールである。
郵便物は、先に小さな紙切れが届き、それとパスポートを持って中央郵便局に取りに行かねばならない。以前は1時間待ちが普通だったが、今回は10分間ですんなり賄賂も要求されずに品物を受け取ることが出来た。
いろいろ調べるとT先生は今メイティーラ経済大学で教鞭をとられているのが解った。それで、今ヤンゴン外大に勤務する知り合いの先生に。電話番号を教えてもらったものの、メイティーラまでなかなか電話が通じない。
ウ・レーとアンケ
前回、ウ・レーとサヤーの違いを考察した。今回はアンケである。英語のUncleがなまってアンケである。、ミャンマー語は大体語尾がスーと消える。 日本語英語はその反対最後尾をはっきり言い切る。たとえばHotel日本語的にはホテル、タイ語やミャンマー語ではホーテェスカートも、スカーと発音し、後ろの発音がスーと消えてしまう。それで、アンケは見るからに金持ちのおじ様に使われる。
私は、やせていて恰幅も悪いし、第一この国では金持ちでもなんでもないので、ほとんどアンケと呼ばれたことがない。ウ・レーは、親戚のおじさんや、その辺のおじさんにも使う一般用語。ごく親しいおじさん(ちょっと年配になる)は、バーバーと呼ばれることもある。英語の床屋の発音と同じバーバーである。
以前雇っていたドライバーの孫達が、私のことをバーバーというので、「婆」に聞こえるので、それを止めさせたら、次にアンケになった。この孫たちだけが、私のことをアンケと呼ぶ。早く、いろんな人からアンケと呼ばれる身分になりたいな~。
結婚のシーズン
雨季が終わり乾季になりますと、結婚式のシーズンを迎えます。このおめでたい結婚式に、今までに25回くらい招待されました。中国系の結婚式、シャン族、ヤカイン族、軍人さんの結婚式、クリスチャン、回教徒、新郎新婦のどちらかが日本人の結婚式にも5回程出席したことがあります。また式場は、一流ホテルの大広間から有名なレストランを借り切ったり、街角にある仏教施設で行われたり、本当にさまざまな式を経験しました。
本日紹介する新郎新婦は、本当に庶民的な街角にある仏教施設で、親類や親しい人を招いた心温まる披露宴でした。新郎は弁護士の卵27歳、新婦はパンライン病院の看護婦さんだそうです。普通花嫁はメイクアップの専門の人(ほとんどオカマの美容師さん)が衣装からアクセサリー、新郎新婦2名のメイクを手がけるのが普通ですが、この2名の場合は新婦は自分で全てやったそうです。また、新郎も薄化粧されたり香水つけたりするものですが、この新郎の場合は本当に素顔で、「鼻毛くらい抜けよ!!」と声が掛かるほど普段通りの装いで、お客さんたちの周りを歩き回っていました。
祈りが叶うて!!
ミャンマー人の殆どは宗教に信じて日常生活を送っています。毎日、パゴダに行ったりする人も多いです。写真の通り、パゴダの仏像の前にある石を触りながら祈り、その祈りが叶うとしたら石は軽くなって下さいと読んで石を持ちます。もし、石が軽ければ自分の願いが叶うと信じています。逆に、願いが叶うとしたら石は運べないほど重くなって下さいと言う人もいます。
人間カーリング
クラブ青森ですか? 去年の冬季オリンピックからカーリング競技が有名になっていますね。熱帯の国にいてカーリングなど、見たことも聞いたことも無いです。先月青森に行って来たのですが、三内丸山遺跡は見に行きましたが、カーリングは見れませんでした。
カミィ・チン族の織物
チン族も細かく区分すると数種類の部族に分かれます。そのうちの1つカミィ・チン族の村に「織物」を求めて3ヶ村行ってきました。
場所は、ヤカイン州です。普通 チン族はチン州の山岳地帯に住んでいますが、ヤカインの山岳地帯に移り住んできたチン族の人々や、平地に降りてきた人々もいます。その中でもカミィ・チン族の織物が緻密で美しいと聞いていました。実際に織っている村を訪ねて、その美しさに驚きました。残念なことに染料は自然のものではありませんでしたが、昔ながらの腰機(こしばた)で、1日に数センチしか織れないそうです。