文化遺産保護


ベイタノーの入り口
紀元1世紀~3世紀ごろに建設したピューの遺跡である、ハリン(Hanlin)、ベイタノー(Beikthano)、タイェーキッタヤー(Sri Kestra)はユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録申請を行っています。
この三箇所の登録された後の様子を見てからそのほかのバガン、インワ古代、タウングーなども文化遺産保護の活動に中心するようです。

麗しのペグークラブ





再び ペグークラブに行った。
100年前に建てられた、その後何度か改修されたであろう、
今は朽ち果てるのを待つように、小雨の中たたずんでいる。
もうじき改修作業が始まるのだろうか?あちこちにコンクリートのレンガが山済みされていた。
本来立ち入り禁止の建物だが、管理している人にコネを使って2度目の撮影を敢行した。
ここは英国統治時代の社交クラブである。もう1つのジムカーナー社交クラブは何度か捜し回ったが発見できないまま。当時ラングーンと呼ばれていたヤンゴンライフの英国人社会の華やかな社交の場として、2つの社交クラブは競い合っていたのだ。
第2次世界大戦中は、日本軍の将校クラブとして使われていた。久留米から芸者衆も随行していたそうである。従軍慰安婦の研究者の女性から聞いたことがある。
今は国軍の建築部の管理の下、訪れる人もなくひっそりと、朽ち果てるままに放置されている。

ヤンゴンの街角 忘れ物のに道の端にポツンと、、、

ヤンゴンの街角  忘れ物のに道の端にポツンと、、、
前々から気になっていた。今日はたまたまカメラを持っていたので、撮影できた。分英国統治時代の街灯の基礎部分だと思われる。何故ここにだけ1本のみ残されているのだろうか?
とても不思議な気がする。しかし、誰も、そんな事を気にする風もなく、街行く人も車も全くこの柱に無関心である。しかし、何で撤去されないのだろうか?結構邪魔なんじゃないかとも思えるのに、、、
1860年頃に、技師のフレーザー等の尽力で、ダウンタウンの街づくりが完成を見たというから、もしかしたら100年以上この場所に立ち続けている柱かも知れない。アノヤター通りと35通りの交差点付近。100年間、この柱は、見続けている。
英国時代、第2次世界大戦中の3年間の日本軍支配、1948年英国から完全独立ウ・ヌーの時代 (国民党の残党,共産主義者、カレン民族独立部隊 )全く統制が出来ない時代、ネーウィンによる鎖国政策 軍政と民主化運動 そして、今のミャンマー果たして、新政府は暁光をもたらすのだろうか??

最後の王妃 スーパヤーラッとコーミンコーチン通り

コーミンコーチン通りkominkochimlan_yangon
「コーミンコーチン通り」
何てこと無い写真で失礼します。タクシーを止めてパチリと撮った1枚。
コーミンコーチン通りをずっと捜していた。日本大使館があるナッマウン通りに繋がるだけを手がかりに捜していたら、今までカバエーパゴダ通りだと思っていた、シュウェダゴンパゴダ東門の前の通りと交差するアタリから、シュウェゴンダインの交差点までの短い700米くらいをコーミンコーチン通りという事が分かった。
ビルマ最後の王朝コンバウンの最後の王ティーボーミンが妻や子供と、王都マンダレーの王宮を追放され、インドのボンベイの南ラトナギリに幽閉されたのは1886年の事。1916年にティーボー王が亡くなると、王妃は許されてマンダレーには帰れなかったものの、ラングーン(ヤンゴン)のコーミンコーチン通りに、亡くなるまで住んでいたという。 ほとんど100年前の出来事である。
直ぐ近くにあるシュウェダゴンパゴダが大きな慰めになった事だろう。
ティーボー王と王妃スーパヤーラッ
随分前、多分10年近く前に買ったBurmahという英文の写真集(スコットランドで上梓され、1855年から1925年のビルマを撮影)に、シュウェダゴンパゴダで撮影された、ティーボー王と王妃スーパヤーラッの写真を見つけた。写真集の中にもう1枚「王と王妃」と題した写真が彩色されポストカードになって掲載されていた。

やはり色ツキのほうがきれいだなぁと思って、見ているうちにこちらの写真は王夫妻ではない事が分かってきた。多分 モデルを使ってスタジオで撮られたものである。
王妃役もふくよかな美人で王もキムタクばりのハンサムである。王の役は当時超人気のミンター(役者)ポーセインではないかと思う。因みに、王子も役者(男)も、ミャンマー語では同じ「ミンター」と言う。王女と女優も同じで「ミンタミー」

王妃 スーパヤーラッは、コーミンコーチン通りの住まいで、何を見、何を感じて最晩年を過ごしていたのだろうか?

☆英国人の社交場ペグークラブ

ペグークラブ
次に驚いたのは、英国統治時代、英国人の社交の場だったパゴー(ペグー)クラブを初めて見つけた事だ。
 ダウンタウンから行くと国立博物館の一つ手前の路地を右に曲がると、ロシア大使館の無味乾燥な門扉の前に、パゴークラブは、その百年前の姿を残しつつ、朽ち果ててまぼろしのように陽光の中に佇んでいた。
一応警察官が詰め所にいたが、「撮影していいか?」と聞くと、「いいともいけないとも言えない」と弱弱しく言うので、2000KSを、手の中に押し込んで中にズンズン入っていって撮影した。
大きな玄関かホールのような建物が向こうに見えたが、数匹の犬がうるさく吠えるので、遠くからの撮影になった。どうもそこが入り口だと思うが犬が怖くて近寄れなかった。
ペグークラブ
多分英国時代は、ピィーロードから直接入れる構造だったのではと思う。そして思い出したのは、以前福岡在住のM女史(従軍慰安婦の研究家)から、ここが日本軍が占領時、ヤンゴン市内6箇所あった慰安所の一つだと聞いていたのだ。久留米から芸者衆も何人が来ていたと言う話である。
慰安婦のことを書いて思い出したのは、それより以前に明治時代に、1890年以降1920年代まで、ミャンマーの地に「から行きさん」と呼ばれる女性達が、累計すると数百人いたという。その中にはこの地で命を落とした女性も少なからずいた事と思う。
その人達の墓が、トレーダーズホテルの駐車場の横、スーレーパゴダ通りに面した今は有料トイレが設置してある場所にあったという話を聞いた。そんな一等地にと最初は信じられなかった。
最近読んだ土橋泰子先生の著書「ビルマ万華鏡」にも、ピィーロードとタムウェの2箇所に日本人墓地があり、1998年11月に、ミンガラドン地区に移転されたとある。
ペグークラブ
しかし、から行きさんの墓の話は、まるで聞いたことが無く、実はサクラタワーで歯科クリニックを開いている、博識のウ・トントントゥエに聞いたのだが、やは
り多くの日本人が、から行きさんを日本人墓地に入れたくなかったのではないかと推測できる。
死んでからも差別された女性達の遺骨は、果たして新しい日本人墓地に葬られたのだろうか?タムウェの元の日本人墓地は、かなり荒れ果てていたようで、私がミャンマーに来た1998年に移転されるまで、今現在去年2010年5月に大火事で燃えたミンガラー市場がその場所だったと聞いた。

つわものどもが夢の跡 ラングーン(ヤンゴン)

プリト教会
ヤンゴンのダウンタウンの街並みは英国統治時代に整備されたものだが、それよりも更に古い時代、日本の戦国時代と同時代、 下ビルマの覇権をめぐっては、ビルマ族とモン族が血で血を洗うような戦いを繰り返していた時代に、タンリン地区に16世末から17世紀にかけて30年間、自国の王国を作った
ポルトガル人プリトーという男がいた。
教会
プリトーが建立した丘の上に立つ教会を、先日写真を撮影する事が出来た。この場所は 現在政府の管理地にあたり(直ぐ裏に英国時代からあるミャンマー最大の石油の精製工場があるため)一般人は立ち入り禁止地区になっている。
教会
今から400年位前、日本では豊臣秀吉やお茶の千利休の時代である。 外国人の プリトーが、モン族の後ろ盾を背景に、ビルマ人と対峙しながらも、小さな王国を造っていたとは、なんと興味深いドラマだるか?
そして、シリアム(現在タンリン)港から盛んに貿易も行っていたという。 その頃まだヤンゴン(当時はダゴン)港はまだ整備されてなくて、パゴーの港と並ぶ良港(河の港です)だったのだ。
教会
去年訪れたピュー族のベイタノー遺跡のように、またはヤカイン族のミヤウにある王宮跡地のように、地面にわずかばかりのレンガの基礎が残ってるものと思っていた。
ところが草が生い茂る丘の上のプリトーの教会は、訪れる人もいないパゴー河を臨む丘の上に、400年間の雨風に耐え、柱や壁は生い茂るツタや木々、草花と共存しながら頑強にレンガ建築の美しい姿を残していた。
まさに 夏草や つわものどもが 夢の跡

街の記憶2 昔、スーレーパゴダは島だった?

昔池だった場所を埋め立てて出来た広場。スーレーパゴダの北側に市庁舎、その東横にある建物は、英国時代デパートだった。この広場(フインチスクェア)にビクトリア女王の大理石の像があった。
昔池だった場所を埋め立てて出来た広場。スーレーパゴダの北側に市庁舎、その東横にある建物は、英国時代デパートだった。この広場(フインチスクェア)にビクトリア女王の大理石の像があった。
1820年代のヤンゴンの古地図を見ると、スーレーパゴダは湿地帯に突き出た島のような丘の上に立っている。
その北側周辺は多くの寺院があった。そして、東と南方面は湿地帯、池のような状態で、さらに南にあるヤンゴン河に続いていた。その湿地帯が埋め立てられ、今現在のマハバンドゥーラ公園や市庁舎前の広場になっている。(ファインチスクェア)スーレーパゴダの北側にあった寺院は、都市計画の邪魔になるので、今現在のボージョーアウンサン市場の西側、タイェードゥ寺院がある場所や、それより北に移された。
サクラタワー20Fのスカイラウンジから撮影。南にヤンゴン河が見える。スーレーパゴダの裏側から東横は200年前は大きな池だった
サクラタワー20Fのスカイラウンジから撮影。南にヤンゴン河が見える。スーレーパゴダの裏側から東横は200年前は大きな池だった。
そして、東西に走る大通りは5本。北からボージョーアウンサン通り(西側をコミッショナーSt. 東側をモンゴメリーSt.)。アノーヤター通り(フレーザーSt.)。マハバンドゥーラ通り(ダルホージィSt.)。コンデー通り(マーチャントSt.)。カンナー通り(ストランドSt.)。( )内は英国時代の名称

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面白い少数民族の瓶

ミャンマー
ミャンマー
親友のお宅で見ました面白いお酒の瓶です。Kayah Rum と書いてあり、名前のままカヤー民族の製品のラムです。発行した生年月日は書かれておりませんでしたが、お宅のおばあさんの話によると、そのお酒は60年前から家にあったと話しました。面白いなのは蓋です。写真の通り、少数民族女性の人形を蓋として使用しております。

500年の眠りから覚めた小さき仏様

500年の眠りから覚めた小さき仏様
500年の眠りから覚めた小さき仏様""/
ヤカン州ミヤウの旅も最後の日の事です。早朝5時半よりカメラを持ってナラワホテルの裏手を散策しておりました。タイルの写真はラウンパンピャウ ゼーティ (1525年)です。ゼーティとパゴダはほぼ同意語です。パゴダの周りの塀(へい)にタイルが使われていて、青、黄色、白などバガンでも見られない様式です。
このパゴダの直ぐ前にはシュエジョーテェイン・ゼーティ(1471年)と左右に子供のパゴダを従えたようなやはりヤカイン独特のパゴダがあります。ラウンパンピャウ・ゼーティの隣には、修復されていないトゥーパヨン・ゼーティ(1491年)が古風な姿で小雨に打たれています。

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ミヤウの遺跡

ミヤウの遺跡
ミヤウの遺跡
「世界遺産」を越える文化遺産(11世紀から13世紀)といわれるパガンの壮大なパゴダ群には驚かされます。真ん中にゴルフ場を作ったので「世界遺産」になれないなどいろいろ言われていますが。一方ヤカイン州ミヤウのパゴダ群(15~18世紀)は、山間部に散在していて、緑の原野の中に同化するように優美にしっとりと佇んでいました。

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