ベイタノーの遺跡のすぐ近くでは、牛の市が開かれていて、大きな牛は25万ks(25000円)で売り買いされていた。
今回のマグウェからネーピドゥを回る旅の中で、目玉というか目的は、ビルマ族がこのミャンマーという土地に出現する以前に栄えたピュー族の遺跡ベイタノー(2世紀から4世紀)に行くことだった。
ピーと言う町にもピュー族のタイェキタヤ遺跡があるが、こちらはずいぶん前に2回行ったことがある。ベイタノー遺跡には、新しく博物館も建てられていて、外国人料金5ドルを支払って館内を30分くらい見て回った。入場者名簿にちょうど1年前に日本人女性の名前が書かれていた。
話は少し変わるが、(2010年3月10日頃) 衛星放送で中国の「大理」を紹介していた。1200年前に南ショウ国の都だったと。このナンショウ国が9世紀に南下してミャンマーに攻めてきて、滅ぼしたのがピュー族の城塞都市とモン族の都であるといわれている。
しかし、13世紀にやって来た元寇(モンゴル)もそうであったが、このナンショウも、長居はせずに自国に早々と戻って行った。今の昆明にピュー族の捕虜3000人を連れていったという。
遠い昔、騎馬民族のビルマ族は、そもそもナンショう軍の斥候セッコウ(敵の地形や軍備の情報を調べる役目)や先導を担っていたという。 それで、9世紀後半ナンショウが引き上げて政治的空白地帯になったミャンマー北部から中部にかけて、先に定着したシャン族を避けて南下して来たといわれている。
ベイタノーの博物館には、出土したコインの写真はあるが、実物はない。つぼや土器も日本の縄文時代のものと大差がない、日干し煉瓦でできた城壁、ピュー族はどんな民族で宗教は何だったんだろうか? どんな衣装を着て何を食べていたのだろうか?興味は尽きない。
2009年の12月に行ったカヤー州の山岳地帯の民族にも、元ピュー族だと自称する民族がいるという。この自称ピュー族の末裔というのは、日本の平家の落ち人伝説のように、この国各地に根強く残っている。
この旅から戻ってきた時に、ビルマ族の友人の一人が、もうじき「ピュー族とその文化」という本が出版されるというニュースを教えてくれた。一般のミャンマー人もピュー族については、ほとんど何も知らない。この本が出たら早速辞書を引き引きゆっくり読んでみようと思う。