目の前に大河が横たわっている。ヤンゴンからチャイティーヨー・パゴダに行く時も渡るシッタン河だ。第2次世界大戦の末期に、日本の兵隊さん、看護婦さん従軍慰安婦の女性など1万人近い人々がこの川で亡くなっている。ここはパゴー管区ピューという地方都市から東に1時間半、オートバイの背に乗ってやって来た。3年前には向こう岸にあるドーダン村に渡り、知人の家々を訪ね歩き愉快な時間を過ごした。その渡し場である。前回は水牛や洗濯する村人でにぎやかだった対岸は、無人でここ数日の長雨で川の水かさは限度いっぱい土手まで来ている。
前回楽々渡れた川岸に、警察の詰め所のような小屋が出来ていて、ここで厳しい尋問に会い、向こうの村に渡る目的等も聞かれた。目的は村にパゴダを建立するためと、自分で描いたパゴダの図など見せて説明したが、現場でのやり取りは穏やかなものだったが、トランシーバーで本部と連絡を取ったりして、長らく待たされた挙句不可という返事だった。
それで当面の基礎工事に必要な費用だけを持ってゆきたいので、私はこの場に残り連れの村人を村の寺院までやりたいと願い出たが、それも不可。連れと一緒にピューの宿まで兎に角帰って呉れの一点張り。下っ端の警官に決定権はないし、言い争っても無駄なのは長いミャンマー生活で分かりきっているので、トラックカーが
来たのでそれに乗って帰ることにした。広い助手席に村人の連れと乗車し、またひどいでこぼ道を1時間半かけてピューまで戻ってきた。驚いたことに若い警官が後ろの荷台の大勢の乗客と共に降りてきて、宿まで調べに来たのだ。実際にその宿に宿泊しているのかどうか調べてまた帰っていった。
その後、村人を一人で再び同じ道を行かせ、川を越えて村までお金を届けてもらった。よく朝、村人は村長と村の役人3人で戻ってきて、寺のお坊さんの手紙もあり何とかあの関所は通れるという話だったが、宿の人がピューの警察の許可を貰っていった方が良いというので、村に渡る前にピューにある警察本部で交渉すること2時間、結局時節がら外国人があの村に行くのは不可ということで、またすごすごと疲れ果ててヤンゴンまで戻ってきた。
おんぼろバスで6,7時間かけてヤンゴンには午前3時半ごろに到着した。アウンミンガラ・バスセンターにはそんな時刻でもタクシーが大勢待機していて、タクシーで自宅に向かっていると、シュエタゴンパゴダが闇夜に見えない。市内中が停電でも、毎晩ライティングされて夜空に燦然と黄金に輝くシュエタゴンパゴダ。今夜は何故ライトアップされないのだろうか?ヤンゴン市内を練り歩いたという大勢の僧侶のデモと関係があるのだろうか?NHKのメインのニュースでもやっていたし、3日間ヤンゴンを留守にしている間に、日本大使館から、「****の事態ですので充分に注意されたし」という郵便物も届いていた。
また「11月にはチン州に入りたいので、ここは許可がいる地域なので旅行会社を通じて許可を申請していたのが、どうしても許可が下りないので今年のチン州行きは、取りやめました。」という友人からのメールも届いていた。向こう岸は直ぐそこなのに、河一つが越えれない、、、、、、。ミャンマー全般に言えることだ、他の国では当たり前で簡単な事が、全く容易ではない。しかし、大変な時期であることは確かなようだ。