サイクロンの影響でヤンゴンでは多くの樹木は倒れてしまいました。特に公園は大きな樹木は多かった為、一番被害をうけました。今はその樹木を彫刻師に預かって写真の通り様々な彫刻を作っています。場所はシュエダゴンパゴダの西方面にある「ピートゥインピン公園」で作っています。出来上がった彫刻もそこで販売しています。倒れた木のほとんどは50年~100年位経っている木が多いです。
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ミャンマーしかないおかず
名人「ミンティンカ先生」が他界
61年目Martyr`s Day
今日はミャンマーでは休日であり、アーザーニーネといいます。「アーザーニー」は殉難者で「ネ」は記念日の日です。殉難者の日 アウンサン将軍が暗殺された日でした。61年目でした。
サイクロン後記
先日、 開店する店に使う家具を買いに、10年來ひいきにしている家具屋に行って驚きました。
店内にひしめく様にある家具類(チーク材の家具)が、 店内の4分の1くらいしかないのです。 ここの家具はよそに比べてやや高めですが、品質がいいので長年つきあっている訳ですが、これほど展示している家具が少ないのは初めてなので、不思議に思っていると、メタボの主人が言うには、「サイクロンの後、笑いが止まらないくらい売れに売れて、 製作が追いつかないくらいだよ」と体をゆすり豪快に笑いながら話してました。
サイクロンの後、大儲けした人たちもいるんです。まず、ヤンゴンのアパートは、ほとんど8階建てで屋根はトタンです。これがかなり吹き飛ばされたり、破れたりしてますので、真新しい銀色のトタンに変えているので、 高いところから見るとヤンゴン中の屋根が銀色に光っています。
また救援活動のために米や物資を運ぶためにトラック料金が馬鹿高くなりました。また、旅行者が減少で泣いていた一流ホテルも、 ヤンゴン市内のかなりの地区で、電気と水道が止まりました。電気がない状態には人間何とか耐えられますが、水洗トイレやシャワー、洗濯など水なしでは生活ができません。それで軒並み一流ホテルのトレーダーズ・ホテルやセドナホテルでも満室が続いたそうです。
便乗値上げもあり、この時期に儲けた人も実はたくさんいたんですね。
「サイクロンから2ヶ月たって」
ヤンゴンでは、すべてがサイクロンの以前に戻り、一見平静に見えます。 停電も今はすくないし、物価も少し高いですが、 一時期の馬鹿高さはなくなりました。年配のミャンマー人に聞いても、これほどのサイクロンは誰も経験が無いと言ってました。
救援にヤンゴンから3,4時間の所を中心に3回行きました。 3回目の時に米を満載したトラックに同乗してきた人が、被災地12箇所を回ったという人でした。私が「一番ひどい地区はどこでしたか?」と尋ねると、「そりゃ~ラプタだよ。 村ごと無くなっているところもあるしね、ひどいもんだ。」と言っていました。去年の7月11日に41歳で急死したミャンマー1の人気スターのドゥエーが亡くなって丸1年になりますが、彼が亡くなったときも、葬式があった翌日には無許可で撮影した葬式の模様が、VCDやDVDになって市中で発売されていました。
今回の被災地の様子も、数日後にはVCDになって発売されていました。私は見ていませんが、見た人の話では死屍累々の映像が延々と続いていたそうです。近所の家に親戚の知り合いのラプタで被災した人が2名いるというので、話を聞きに行きました。モウ時間がかなりたっているので2名とも落ち着いていましたが、やはり話し出すと声を詰まらせたり涙が出てきたりしてました。 主に30歳代の男の人が語った話は、かなりショッキングな内容でした。
真夜中、一晩中雨と風がうなりながら吹き荒れて、 家ががたがた大きく揺れて一瞬で家が壊れて、妻と2人の娘一家4人が家の外に流されて、真っ暗闇の中彼は偶然体があった木の幹に、必死でしがみついたそうです。妻や娘の名前も呼び続けましたが、風の音が激しく、 喉のところまで水が来ていたそうです。 恐怖心と寒さとで、必死で木にしがみついていて、流れてくる木やいろいろなものが体にぶつかり、着ている衣類もほとんどなくなり裸に近い姿で30時間位木にしがみついていたそうです。
何とか水かさが人が歩けるくらいまで下がって、近所を見渡しても、村の家々がすべて流され、 生存していたのは5,6人で椰子の実を割り「水」の代わりに飲みながら、夜は生存した人達と泥だらけの体をよせあって4夜すごし、5日目に救援されたそうです。
今日のミャンマー
サイクロンから1ヶ月半すぎて、、、6月21日にこのブログを久しぶりに書いている。6月2日から新学期が始まり。
ヤンゴンは一応平静に戻っているかのよう。昨晩10学年の試験の合格発表があり、私の周りのスタッフの妹他弟など合否が判明し、悲喜こもごもざわついている。この試験に合格しないとまず大学に行けない。人生の分かれ目の試験。10年くらい受け続けて合格できない人もいる。
サイクロン直後、一夜にして景観が全く変わってしまったヤンゴン。緑の木々に包まれていた市内の3分1の樹木が根こそぎ倒され、かろうじて倒壊を免れた木々も、幹は裂け枝は折れ、多くの横倒しになった大木が道路をふさいでいた。今はその木々もきれいに片付けられ、アパートの吹き飛んだトタン屋根なども、新しいトタンを葺いて、あちこちで屋根が銀色に太陽光をはね返している。
日本のニュースでも中国四川省の地震ニュースに隠れて、ほとんど報道されなくなっている。TVニュースは映像がなければ、ニュース番組として成り立たない。ジャーナリストの入国を厳しく制限しているこの国では、取材も報道も難しい。
G&Gのマ・カインとピョーウェも救援活動に忙しく、ブログの更新が全くおざなりになっている。ピョーウェは、一般市民の青年団のようなグループに所属し、今も救援活動を精力的に行っている。 小船でしかいけない地区など、なかなか救援が行われていない地区などにも行き、今は今後の農作業に必要な、作付けのための籾や肥料、工作機械などの支援をしている。私も日本から預かってきた義援金や自前の費用で、スタッフたちと4回ほど救援に行ってきた。
多くのミャンマー人たちが、自国民を救うために立ち上がり、多くの支援物資を集め自分たちで現地まで運ぶ作業をやっている姿を見て。この国にまだまだ微かだけれども力強い「希望」があることを肌で感じた。
IPSTAR でネット化
恐ろしいサイクロン後②
サイクロンの現場へ行ってきました。ひどい災難にあいましたコンチャンゴン周辺であるタンピンゴン村です。難民たちのほとんどは道路沿いに人々ががずらりと並んでいた。今回はメンバー13人でお米や豆や薬やタマネギや服装や蚊帳や等、女性用の下着、子供達にお菓子、お坊さんにお金、、、、寄付しました。
彼らの全ての物がなくなりました。先ずは食べ物を渡してこれからは住むためのシートが必要です。1人しか残らない年上の方々も生活の困っている。親が無くなった子供達も行く所がなくて、、、、我らのグルプのようなボランティアグルプもたくさん見られました。行く時も帰も何の問題もなかった。