地震でシュウェモンドーパヤーが壊れました。
シュウェモンドーパヤー
「満月の祭日にパゴダ詣ではコリゴリだ」とつくづく思った。
7月15日の満月を過ぎると雨安居に入り、10月12日の満月(タディンジュの祭り)まで、結婚式や旅行、ステージショーなどを慎む時期になっている。
それでこの7月15日の満月の日は、謹慎する前に楽しもうというミャンマー人で、パゴーの町はどこもかしこも、信じられないような人出だった。タクシーのドライバーをしているサルが、「明日、嫁さんとバゴー(文字でペグーと書いてパゴーと読む)にパゴダ参りに行くので、一緒に行かない? 」と誘ってくれた。
ぼろのタクシーだが、スピードは出る。ヤンゴンから1時間半くらいで隣町のパゴーに到着した。しかし、雨が降り出してきた。
まずは一番有名なシュウェモードパゴダに詣でた。雨の中ものすごい参拝客である。
過去5,6回このパゴダに来ているが、こんなに人が多かったのはの初めての経験。
パゴーはもともとモン族の町である。このパゴダも最初の仏塔は825年に建てられたそうで、その後だんだん大きくなって、現在のパゴダは、114メートルあって、ヤンゴンのシュウェダゴンパゴダ(99米 これもモン族が建立)よりも高い。1930年の大地震で、仏塔の先が折れて落下した。
そのままの状態で祭られている。
投稿者: Golden Garden Tour
日本の携帯がミャンマーで使用可
今まで日本から持ってきました携帯などは国際ローミングがなかったため、使えないようになってしまい、ヤンゴンへ到着したとたんで、電波もなかったり圏外になったりしていました。ただし、先日にヤンゴンへ来られましたお客様が日本から持ってきた携帯でかけてみたところ、繋がりました。そして、本日より入国したお客様にも試していただきましたところ、繋がりました。両方とも到着した後で、日本からお持ちした携帯からミャンマーの携帯へ試したことです。
今までは中国、韓国、ベトナムからお持ちした携帯はミャンマーで使えるようになりますと、聞いていましたが、今は日本の携帯も使えるようになりましたかな、と思っています。
いつまで使用できるか、他の国際携帯も使えるか、今のところはわかりませんが、今後ミャンマー観光へする方々も入国した後で、お持ちしてきたご自分の携帯それぞれを試してみて下さい。
ヤンゴンで再びのMoney Changer
FEC(兌換券)、ドル、ユーロ、シンガポールドルで今の所は4種類で両替が可能です。
Thain Phyu Money-changer Center
Thain Phyu Money-changer Center
昔が一時的にありました「両替の為替センター/MONEY CHANGER」が今月より再び開くことになりました。写真の通り、大勢の人々が多く両替しています。
両替はMyawady Bank、Inwa Bank、Kanbawza Bank、Co-Operatives Bank、Myanma Industrial Development Bank、Myanmar Oriental Bank の扱いとなって、6列のカウンターで開いています。レートも看板で出していますので、間違えません。
両替の時、ミャンマー人は「身分証明書」、外国人は「パスポート」を提示する必要ですが、簡単に両替はできます。ただし、人が多いためある程度は待たされます。
無休となり、営業時間は【09:30~16:00】までです。食事の時間【12:00~13:00】の間はクローズしますので、時間に気をつけてください。
Thain Phyu Money-changer Center
No.99/103, Thainbyu Road, Botahtaung Tsp., Yangon.
ビルマ語の日本語表記
ビルマ語を習いだしたのは、15年前。
JRに乗って、某工業大学にビルマ人留学生がいるというので、その女学生に1年間習い、後はヤンゴンに来て学んだが、40歳半ばからスタートの語学学習は、、、実りの少ないものだと
身に染みて感じる此の頃。
昨日の友人のブログのシャン麺の表記に、いろいろな人がコメントを書いていた。友人はシャン麺と書いているのだが、
以下3人の人は、
シャンカオスエィ
シャンカォッスエ
シャンカウスエ
ビルマ語を日本語表記で表すって、
本当に難しい。
私だと、、、
シャン カウッスウェ かな?
カウスウェかも?
友人が、Netで調べて出てきたら正解かな?
とも言っていたし、
別の友人は
書かれたものを第3者に発音してもらって、
ミャンマー人がOKなら、正解だと。
だがしかし、ビルマ語を完璧に表記できるのは、
ビルマ語しかないというのが結論だろうか?
再び再開するヤンゴンエアー航空会社
ヤンゴンエアウエイズ(Yangon Airways)は2010年12月から突然運航が停止されましたが再び運航することになります。10月16日から再開する予定で、スケジュール表も出ています。
そのため、ミャンマー国内航空会社はすべて5社となってしまいます。
ヤンゴンエアウエイズ、エアマンダレー、エアバガン、Asian Wings、Air KBZ(エアカンボーザ)とさまざまになってきました。
マンダレーで楽しめるご飯とおかず
マンダレーで楽しめるシャン族の作り方で、作られているお店です。出ているのはご飯とおかずとなりますが、ミャンマー料理より油が減っています。特に野菜炒めは美味しいです。写真のとおり、いくつかのおかずが並んでいますが、好きなおかずを入れても大丈夫です。
ただし、食べ放題の雰囲気ですが、食べ放題ではありません。最初の1回目では自由に好きなものを好きな量で取ることは大丈夫ですが、2回目で取る場合は、追加料金がかかってしまうようです。最初は2000チャットからです。
おかずの種類が多くて、どれも美味しいですし、野菜は新鮮です。お金の取り方だけは微妙ですので、最初から確認して、楽しめると無難と思います。
ヤンゴンの街角 忘れ物のに道の端にポツンと、、、
前々から気になっていた。今日はたまたまカメラを持っていたので、撮影できた。分英国統治時代の街灯の基礎部分だと思われる。何故ここにだけ1本のみ残されているのだろうか?
とても不思議な気がする。しかし、誰も、そんな事を気にする風もなく、街行く人も車も全くこの柱に無関心である。しかし、何で撤去されないのだろうか?結構邪魔なんじゃないかとも思えるのに、、、
1860年頃に、技師のフレーザー等の尽力で、ダウンタウンの街づくりが完成を見たというから、もしかしたら100年以上この場所に立ち続けている柱かも知れない。アノヤター通りと35通りの交差点付近。100年間、この柱は、見続けている。
英国時代、第2次世界大戦中の3年間の日本軍支配、1948年英国から完全独立ウ・ヌーの時代 (国民党の残党,共産主義者、カレン民族独立部隊 )全く統制が出来ない時代、ネーウィンによる鎖国政策 軍政と民主化運動 そして、今のミャンマー果たして、新政府は暁光をもたらすのだろうか??
犯罪新聞
サテンにおいてあったムーキンタディン(Craime News Journal)犯罪だけを扱った新聞を読んでいた。
読んでいた犯罪新聞に、天井裏の小さな割れ目から会社の事務所に深夜侵入して、3900万ksを盗んだ20歳の男が逮捕された記事が興味を引いた。タイトルは「盗んだ金を湯水のように使った夫婦」
ジャンジュネの「泥棒日記」を引き合いに出すまでもなく、犯罪者は「悪の華」ある種の魅力を備えた悪党ドモが多い。事件の記事には必ず犯人の写真が掲載されている。
バイクで通行人の女性のネックレスやバッグなどを奪った23歳の男。 長身できつね目で東洋風な男は、妹の夫を殺し。店からレップトップを6台盗んだ3人組み。自転車を3台盗んだ体育会系男、オートバイを6台盗んだマッチョ2人組。
ミャンマーラウェイ「MYANMAR JAPAN GOODWILL LETWHAY」
8月13日14日、ミャンマー日本のラウェイ(キックボクシング)の親善試合が開催された。私は14日の試合を見て来た。
まず会場が、初めてラウェイ専用のスタジアムが完成した。カンドーヂ湖 東南湖畔。10数年前から工事が中断したり、草が生い茂って廃墟のような建造物だったのが、6、7年位前に工事が再開し、また中断しを繰り返してやっと完成したスタジアムである。
やっと完成したラウェー専用スタジアム
タイのバンコクも、ムウェタイが大きな観光資源になっているので、ミャンマー・ラウェイも、これから先外国人にもどんどん人気が高まっていってほしい。13日の結果は、日本人1名が引き分け、もう1人が負けたそうだ。14日の日本人出場者は、SAMUKAWA選手と、’CRAZY884選手。
最後の王妃 スーパヤーラッとコーミンコーチン通り
「コーミンコーチン通り」
何てこと無い写真で失礼します。タクシーを止めてパチリと撮った1枚。
コーミンコーチン通りをずっと捜していた。日本大使館があるナッマウン通りに繋がるだけを手がかりに捜していたら、今までカバエーパゴダ通りだと思っていた、シュウェダゴンパゴダ東門の前の通りと交差するアタリから、シュウェゴンダインの交差点までの短い700米くらいをコーミンコーチン通りという事が分かった。
ビルマ最後の王朝コンバウンの最後の王ティーボーミンが妻や子供と、王都マンダレーの王宮を追放され、インドのボンベイの南ラトナギリに幽閉されたのは1886年の事。1916年にティーボー王が亡くなると、王妃は許されてマンダレーには帰れなかったものの、ラングーン(ヤンゴン)のコーミンコーチン通りに、亡くなるまで住んでいたという。 ほとんど100年前の出来事である。
直ぐ近くにあるシュウェダゴンパゴダが大きな慰めになった事だろう。
随分前、多分10年近く前に買ったBurmahという英文の写真集(スコットランドで上梓され、1855年から1925年のビルマを撮影)に、シュウェダゴンパゴダで撮影された、ティーボー王と王妃スーパヤーラッの写真を見つけた。写真集の中にもう1枚「王と王妃」と題した写真が彩色されポストカードになって掲載されていた。
やはり色ツキのほうがきれいだなぁと思って、見ているうちにこちらの写真は王夫妻ではない事が分かってきた。多分 モデルを使ってスタジオで撮られたものである。
王妃役もふくよかな美人で王もキムタクばりのハンサムである。王の役は当時超人気のミンター(役者)ポーセインではないかと思う。因みに、王子も役者(男)も、ミャンマー語では同じ「ミンター」と言う。王女と女優も同じで「ミンタミー」
王妃 スーパヤーラッは、コーミンコーチン通りの住まいで、何を見、何を感じて最晩年を過ごしていたのだろうか?