Photo By Weekly Eleven
女子専用バスはヤンゴンで初めて走るようになりました。今は5つの線から2台で出て、朝と夕方のラッシュの時間帯に出ています。朝は【7時~10時】、夕方は【16時~19時】です。今は臨時で走らせていますが、うまく行けば、続ける予定です。カップルはあまり好ましくないかもしれませんが、女性ひとりは喜んでいます。長く続けるよう、祈ります。
投稿者: Golden Garden Tour
ストランドホテルと絵画のこと
歴史的価値、品格、その優美さにおいて、タイのオリエンタルホテル、シンガポールのラッフルズ・ホテルに並び賞賛されるのが、ミャンマーのザ・ストランド・ホテルです。
ホテルの前を東西に走る道路は、ストランド・ロードという。地元の人は「カンナーラン」ランとは通りのことで、意味は川端通りでも訳せる。すぐ横をヤンゴン川が流れている。
ホテルに宿泊したことは無いが、アフタヌーンティーやバーに20回近く通っただろうか? 英国時代の残照をこれほど色濃く残しているホテルは無いだろう。
前々から絵画の事が気になってはいたが、今回は絵画好きの友人とグランドフロアーに飾られている、英国時代のストランドホテルの姿や、その当時の町並みなどを描いた絵画類を眺めて歩いた。
これは、ほとんど全部の絵画が、ストランドホテルからの資料ではなくて、1855年から1925年の英国統治時代のビルマを撮影した「Burmah」と言う写真集の中に掲載されている写真を元に、ミャンマー人の画家に描かせたものであることを知った。
内心がっかりした事は否めない。
日本から毎年やってくる友人と、今回もグランドフロアーにあるBarで、ゆっくり酒を飲んだ。バーテンさんに「日本人客は多いですか?」と聞いたら、「結構来ますよ。日本人はフレンドリーだ」と言ってくれた。
またこの写真集「Burmah」をオールコピーしたミャンマー語の写真集も出ている。
1.ザ・ストランド
2.吹抜けの2階よりロビーを望む。ロビーの壁に絵画がかけられている。
3、正面玄関より入ってロビーを望む。奥にレストランがある。
4.正面玄関より右手がBar 第2次世界大戦中、日本軍が占領当時は厩舎(馬小屋)に使われていたと言う。
5、写真集 Burmah
6、 Burmahのコピー 本
GSMのプリペイドカード
一時的に廃止されましたGSM、【FEC20】のプリペイドカードは再開されました。20ドルと言われていますが、ミャンマー通貨での購入ですので、料金は23万~25万チャット位します。値段はよく変わるミャンマーでは買う前にもう一度料金を確認するのはお勧めです。
長距離列車について
写真に乗っているバガンへ行く列車はまだ走っています。
久しぶりのブログです。
列車の情報となりますが、外国人がよく搭乗している
ヤンゴン⇔マンダレー間のChinese Trainであるヤンゴン発の29UP(12:45)及びマンダレー発の30DN(21:45)完全になくなりました。搭乗するお客があまりにも少ないため、赤字となってしまいましたようです。
また、最近は長距離列車の時間帯は大幅に変わったり、なくなったりの状況ですので、ご利用する前に一度確認した方がベストです。
田舎の結婚式 (2)
新郎の姉のマ・ユーが、ヘヤーとメーキャップを担当。見違えるほどきれいだった。
新郎の離婚した両親との写真
20歳の新郎 21歳の村の小学校の先生の新婦。美男美女のカップル。
村はずれに古いパゴダがあった。その塀の上に小さな人形が数体置かれていた。ナンか鄙びた人形でかわいらしい。
イェチーの隣町、ガテインチャウンの町にあった中国寺院。道教なのか? 大きな布袋さん(禅僧)の金の像があった。その足をさすって願い事をすれば、叶うそうだ、、、どう見ても仏教でない。米の集積、外国への出荷を牛耳っていたのは、今も昔も中華系の人達である。
結婚式は午前9時から11時までなので、それまで隣町のガタインチャウンに車で行った。中国寺に案内された。道教の寺のようである。布袋さん(本当は禅の僧らしいが)の大きな金の像があった。
何でもこの像の足の指に触ると、願い事が叶うとか? 現世ご利益、中国商人がいかにも好みそうな布袋像であった。
英国統治時代以前のエーヤワディの平野は多くはジャングルだったと聞いたことがある。それを開墾し耕地にして、この平野はミャンマーでも有数の一大稲作地帯に成長した。
米の集積、そして海外への貿易は当時中国系の商人が牛耳っていたので、その財を成した中国人が、この寺も建立したのだろう。さて、19日村の結婚式当日である。平日だというのに、大勢の人がお祝いに駆け付けていた。
前日から、親戚や近所のおばさんたちが料理の準備をして、全て手作りのもてなしである。
会場では1名カメラマンを呼んでいたようで、大型カメラで撮影している人がいた。私も3台カメラを持ってきていたので、たくさん撮影したが、新郎新婦の撮影で思うことがあった。
まずは新婦の両親との撮影、父親があまりに若いので、父親は亡くなってお兄さんかな?と思っていると、サルが小さな声で「2番目の父親」とささやいた。
母親より10歳は若そうである。母親も日々美しく成長していく娘と若い夫に焼き持ちしていたかもしれないし、新婦の娘さんも、そんな息苦しさから離れたくて、結婚を急いだのかもしれないと勝手に想像していた。
田舎の結婚式 (1)
元気な村の子供、都会の金持ちの子供はたいてい極端に肥満児が多い、
ここではそんな不健康な肥満児は見なかった。
2011年があと10日ほどで終わろうとしている。12月18日の朝5時半出発で、エヤーワディ管区のイェチー迄スタッフの弟の結婚式に参列するために行ってきた。
ヤンゴンに住み着いて14年間に結婚式に招待されることが多く、多分30回くらいは出席したと思う。今年は3つ目の結婚式で、11月6日に同じマンションの車のタイヤ販売会社社長の息子さんの結婚式が、トレーダーズホテルで豪華に執り行われた。
11月20日に、やはりうちのスタッフの男子が、タンピューザヤッ(タイ緬鉄道で有名な、モーラミャインの南)で、同業の美容師と結婚し、結婚後はその女性の父親〈ゴム園を経営)がスポンサーで、当地で美容院を2人でやってゆくそうである。
母親の家、竹で出来た家。屋根や壁は5年に1回張りかえるそうだ。涼しい。
そして今回今年3度目の結婚式。10月に日本に戻って「逆流性食道炎」と「胃潰瘍」の治療を途中でこちらに戻ってきて、加えて風邪をこじらせているので、行くのを迷ったが、田舎のきれいな空気を吸った方が回復に向かうんではないかと、スタッフのサルの運転する車で、サルの奥さんのマ・ユーの弟の結婚式に出席する事にした。
村の橋、この川の橋が天の川のように、花嫁と花婿の村を
つないでいる。川面にたくさんのベーダーパン(ホテイアオイ 浮き草)が咲いていて、川魚を取っている人もいた。
イェチーには初めて行く、ヤンゴンからバテインに向けて2時間くらい走行して、ニャンドンのボンミャトン大橋を過ぎジャウンゴンから北に向かい更に2時間以上で、それほど大きくない町イェチーに到着した。もう少し北に行くとヒンダターという大きな町がある。
アウンサン将軍 そっくりさん現れる
いまや、アウンサンスーチー女史は、ミャンマー第一の人気で、毎日新聞やジャーナルに写真が出ている。
その父親のビルマ建国の父と言われるアウンサン将軍の伝記小説や評伝などの本が10冊以上も上梓され、カレンダーやポスターもものすごく売れている。
アウンサン将軍の生涯を映画化するという記事をジャーナル誌で読んでいた。
先日、恩赦で刑務所から開放された、プロデューサーで俳優で人気のザガナー氏が、ボーチョウ(将軍)アウンサンの生涯を2015年将軍の生誕100年に映画化したい。アウンサン役は、有名俳優は使わず一般人から選びたいと、資金集めや準備に3年位かかるだろうと述べていた。
私個人としては、ざっと今のミャンマーの男優の顔を思い浮かべて、10年前にアカデミー主演男優賞を受賞した、ミンモウクンが一番容貌的に近いし、演技力もあるし、などつらつら思ってるところに、
12月20日か、「ピーミャンマー」ジャーナルに、そっくりさんが現れたと写真付きで紹介されている。
この若者はミンジャン(パガンとマンダレーの中間)の出身で、周りから「似てる」と言われていたそうだ。
確かに似ている。将軍よりハンサムなくらいだが、俳優になりたいわけではないが、このザガナーの企画の話を聞いて、いても立ってもいられずヤンゴンにやって来たような感じである。
演技の経験は全くないと、しかし、アウンサン将軍の伝記や歴史の本などは何冊か熱心に読んだそうだ。
彼のセールスポイントは、顔が似ている他に、実際に軍人の訓練校出身なので、軍人の所作が出来ることと、誕生日が2月13日でアウンサン将軍と同じだとか、
しかし、撮影準備そして完成までに3年もかかるそうだから、まだまだ候補者は現れると思うし、この若者に演技力があるのかどうかも未知数だし、ザガナーや他の関係者が、彼の熱意をどう汲み取ってくれるかも全く未知数である。
ミャンマサインワイン(楽団)とジャズ
写真は前の演奏会の写真です。
ミャンマー文化省の主催で、ミャンマー伝統的な楽団(サインワイン)とジャズ音楽が混合で演奏する演奏会を行います。
場所はピィーロードにあるSein Lan Soe Pyae 公園です。日時は明日【12月3日】の【16時】からです。
ジャズはドイツ、フランス、イスラエルからの音楽家で、ミャンマーサイワインはドイツの「RAUMZEIT FESTIVAL」で参加した「Hein Tint」サイワインです。
入場券はプラス、ドイツ、イギリス大使館でもらえるようですが、当時にそのまま公園の出口にもいただけることです。公園の入場料はかかります。
ハンターワディ遺跡 王城 パゴー3
ハンターワディ遺跡 王城
ハンターワディ遺跡 王城
柱 チーク材
在りし日の王宮を再建したハンターワディ遺跡
戦国時代の覇者織田信長が安土城を築城した頃、ここミャンマーは、モン族との死闘を勝ち抜いたビルマ族がタングー王朝を開き2代目のバインナウン王が(バインというのが王の意味。現在のヤンゴンの中西部の地名にもなっている)パゴーに7層の黄金に輝く王城を築いていた。
写真にあるようなチーク材の大柱の根元だけが残り、在りし日の王城の大きさをハンターワディ遺跡に見ることができる。
数年前に、7層からなる黄金の王城が再建されたが、これが考古学的に16世紀の末に築城されたバインナウンの王城の正確な姿なのか疑問視する識者が多いそうだ。
いずれにしても、小雨降る中タイや中国からの観光客で賑わっていたので、新しいパゴーの観光名所にはなっているようだ。
入場料が必要。
百年前の寝釈迦の写真を見ながら、、、[パゴー2]
寝釈迦 顔
現在の寝釈迦
昔のチャイプーン・パゴダ
チャイプーンパゴダ
19世紀英国統治時代に、ヤンゴン・パゴー間の鉄道を敷くための測量に来ていたインド人の技師が、密林の中に横たわる寝釈迦(シュウェターリアン)を発見した。実に900年の長き眠りから覚めたモン族・が建立した寝釈迦像である。
発見された当初のご尊顔と現在を比べると、私的な感想だが、昔のモン様式の顔立ちの方が、素朴で尊く有難い面差しに見える。
ヤンゴンからパゴーに向かうと、パゴーの手前にチャイプーンの四面パゴダがある。これもモン文化独特の形式で、パゴーには他にも大小さまざまな四面仏がある。 15世紀末に建立されたチャイプーン・パゴダも昔のままのご尊顔のほうが私は味わい深いと思う。
そして、これも不可解なのが、シュウェターリアンのすぐ横に、数年前に新しい寝釈迦・新シュウェターリアンが建立された。 古い寝釈迦が全長55米新しい寝釈迦は、90米あるそうだ。
シュエタリアン
ヤンゴンの寝釈迦は60米、後は全国に60米以上の大型寝釈迦が続々と建立され、大きさ比べの様相を呈している。モーラミャインの南に位置するチャウタロンにある寝釈迦は全長実に200米というものまで出現した。
小さきものにこそ、仏が宿るという教えはどこに行くってしまったのだろうか?