路上の耳鼻科


ヤンゴンは雨季の真っ只中、連日雨が降り続き、猛暑の日本に比べると気温も30度以下です。大学を出たばかりの新しいマネージャーが昨日から、「突然 耳が聞こえなくなったので、病院にいきたい」と言い出した。 
ベーダーも、2004年の暮れに、突然左耳が聞こえなくなって、今も改善されていない。歌手の浜崎あゆみで有名になった突発性難聴である。 多くは男性に多く、主な原因はストレスだとか、、、。田舎出身で気が利かないマネージャーに、日ごろからがんがん仕事言いつけていて、 オーバーヒートしてストレスから難聴になったのでは? 私の責任かも?と、早速私も当時かかった国立の耳鼻咽喉科の病院に連れて行く事にした。 
そこへ、スタッフのAがやってきて、「僕もあの病院行ったけど、まったく直らないので、30St,にいい所がありますよ」という言葉を信じ、3名で30St,に行くと。そこはビルとビルの間の、路面に開業した、医者の免許などない「お医者さん」ばかり5.6人が、耳や爪などのCareをしていた。
早速マネージャーの耳も見てもらうと。「これは汚い!いっぱい詰まっているね」と、細い金属の棒に脱脂綿を巻きつけて耳の中に、、、、果たして黄色の膿のようなものがべったりついて来た。
何度か脱脂綿を替えて耳の中を掃除してゆくと、いきなりマネージャーが叫んだ。「あっ!! 聞こえる!! 聞こえる!!」と。私もある期待を抱いて見てもらったら「耳の穴は非常にきれいで、清掃しても直らないタイプの難聴です。」と言われてしまった。
後で聞くとマネージャーは、麺棒などで1度も耳の中を綺麗にした事がなかったそうだ。 私の責任でないことに安心したが、こんな路上の病院があるのも、またミャンマーらしいと感心しながら戻ってきた。

ミャンマーのハーブ

ミャンマーのハーブ
以前からハーブに興味を持っていた。ハーブティーやハーブオイルを自分で作れないかな~と考えて、ハーブの本など読んでも、英語名? あるいは和名で出ている。ミャンマー語の辞書と首っきりで調べて、10種類くらいミャンマー名が判明した。 早速朝市にミャンマー人のお供1名つけて、颯爽と出かけて行った。わずか20分くらいの間に8種類ものハーブが手に入った。  
まずショーガ(これがナイトミャンマーの料理はなりったない)、ミント(モヒンガーという有名な麺料理に入れる人もいる。香りがドライにしても強い)、乾燥ものでウイキョウ(イネ科だそうだ。素敵な香り)、丁子(クローブという、父親がブランディーのお湯割りに2,3個浮かべてゆっくり飲んでいたのを思い出す)、たんぽぽの根、生に戻ってレモングラス(これもイネ科の草だが香りがレモンのよう)、バラの花びらなどなど。これらを乾燥させてブレンドしてウォッカ(最近こんなお酒もヤンゴン市内で手に入る)に漬け込んだ。残りのハーブも田舎からスタッフの母親が持って来てくれたゴマ油に漬け込んだ。
丁子(チョウジ)は、ミャンマーの男達が噛みタバコ(和名でキンマ、ミャンマー語でコーン)の中に使っている。どれも市場で手に入ったように、ミャンマー人の実生活の中で使われている物ばかりで、日本のようにアロマ用品の店で売っている特別のものではない。
きっと、ミャンマー独自のハーブが探せば山ほどあると思う。ハーブの語源はラテン語で「草」と言う意味らしいので、本来すべての草花がハーブと言えるのかもしれない。乾燥したミントでミントティーとしゃれ込んだ、なんとも言えない甘い香りが部屋中に広がった。

スパイダーマン イン ヤンゴン

スパイダーマン イン ヤンゴン
颯爽と空かけるスパイダーマン。
中国から入って来る海賊版のDVDで、スパイダーマン1,2.を見たと思う。ヒロインが魅力が無いことを除けば、なかなか楽しめた。ここミャンマーでも、スパイダーマンは人気で、子供服のデザインにそのままスパイダーマン・ファッションがある位だ。しかし、これも中国製か?
しかし、この空翔るスパイダーマン人形は、Made In Myanmarである。 目の前で3分から5分で作ってくれる。他に動物やミャンマーのナッ神なども得意のようだ。
この人形何で出来てると思いますか?見た目や手触りは、ゴムで出来ているよう、、、しかし、実は台所にあるものを使っているんです。答えは、小麦粉です。 色を付けてよく練って、まるで粘土のようになって、さまざまな形を作ることが出来るのです。

KOSE化粧品



どんより曇った空の下コーセー化粧品の広告塔です。パラミー通りとカバエパゴダ通りの交差点にあります。資生堂、カネボウに続いてミャンマーに進出です。ボウチョウ・マーケットなど複数のCOSE店舗を見かけました。
しかしミャンマー人は、これを「コーシー」と読むようです。ヘボン式ローマ字に慣れている日本人には、不思議な発音かもしれませんが、長らく英国の植民地だったこの国の人は、コーシーと発音します。英語のSee、Sea も、そういえばシーと言う発音で、逆に何で日本人がコーセーと発音するのかミャンマー人は不思議なようです。

サイクロン後記

先日、 開店する店に使う家具を買いに、10年來ひいきにしている家具屋に行って驚きました。
店内にひしめく様にある家具類(チーク材の家具)が、 店内の4分の1くらいしかないのです。 ここの家具はよそに比べてやや高めですが、品質がいいので長年つきあっている訳ですが、これほど展示している家具が少ないのは初めてなので、不思議に思っていると、メタボの主人が言うには、「サイクロンの後、笑いが止まらないくらい売れに売れて、 製作が追いつかないくらいだよ」と体をゆすり豪快に笑いながら話してました。
サイクロンの後、大儲けした人たちもいるんです。まず、ヤンゴンのアパートは、ほとんど8階建てで屋根はトタンです。これがかなり吹き飛ばされたり、破れたりしてますので、真新しい銀色のトタンに変えているので、  高いところから見るとヤンゴン中の屋根が銀色に光っています。
また救援活動のために米や物資を運ぶためにトラック料金が馬鹿高くなりました。また、旅行者が減少で泣いていた一流ホテルも、 ヤンゴン市内のかなりの地区で、電気と水道が止まりました。電気がない状態には人間何とか耐えられますが、水洗トイレやシャワー、洗濯など水なしでは生活ができません。それで軒並み一流ホテルのトレーダーズ・ホテルやセドナホテルでも満室が続いたそうです。
便乗値上げもあり、この時期に儲けた人も実はたくさんいたんですね。

「サイクロンから2ヶ月たって」



ヤンゴンでは、すべてがサイクロンの以前に戻り、一見平静に見えます。 停電も今はすくないし、物価も少し高いですが、 一時期の馬鹿高さはなくなりました。年配のミャンマー人に聞いても、これほどのサイクロンは誰も経験が無いと言ってました。 
救援にヤンゴンから3,4時間の所を中心に3回行きました。 3回目の時に米を満載したトラックに同乗してきた人が、被災地12箇所を回ったという人でした。私が「一番ひどい地区はどこでしたか?」と尋ねると、「そりゃ~ラプタだよ。 村ごと無くなっているところもあるしね、ひどいもんだ。」と言っていました。去年の7月11日に41歳で急死したミャンマー1の人気スターのドゥエーが亡くなって丸1年になりますが、彼が亡くなったときも、葬式があった翌日には無許可で撮影した葬式の模様が、VCDやDVDになって市中で発売されていました。
今回の被災地の様子も、数日後にはVCDになって発売されていました。私は見ていませんが、見た人の話では死屍累々の映像が延々と続いていたそうです。近所の家に親戚の知り合いのラプタで被災した人が2名いるというので、話を聞きに行きました。モウ時間がかなりたっているので2名とも落ち着いていましたが、やはり話し出すと声を詰まらせたり涙が出てきたりしてました。 主に30歳代の男の人が語った話は、かなりショッキングな内容でした。
真夜中、一晩中雨と風がうなりながら吹き荒れて、 家ががたがた大きく揺れて一瞬で家が壊れて、妻と2人の娘一家4人が家の外に流されて、真っ暗闇の中彼は偶然体があった木の幹に、必死でしがみついたそうです。妻や娘の名前も呼び続けましたが、風の音が激しく、 喉のところまで水が来ていたそうです。 恐怖心と寒さとで、必死で木にしがみついていて、流れてくる木やいろいろなものが体にぶつかり、着ている衣類もほとんどなくなり裸に近い姿で30時間位木にしがみついていたそうです。 
何とか水かさが人が歩けるくらいまで下がって、近所を見渡しても、村の家々がすべて流され、 生存していたのは5,6人で椰子の実を割り「水」の代わりに飲みながら、夜は生存した人達と泥だらけの体をよせあって4夜すごし、5日目に救援されたそうです。

今日のミャンマー

サイクロンから1ヶ月半すぎて、、、6月21日にこのブログを久しぶりに書いている。6月2日から新学期が始まり。
ヤンゴンは一応平静に戻っているかのよう。昨晩10学年の試験の合格発表があり、私の周りのスタッフの妹他弟など合否が判明し、悲喜こもごもざわついている。この試験に合格しないとまず大学に行けない。人生の分かれ目の試験。10年くらい受け続けて合格できない人もいる。
サイクロン直後、一夜にして景観が全く変わってしまったヤンゴン。緑の木々に包まれていた市内の3分1の樹木が根こそぎ倒され、かろうじて倒壊を免れた木々も、幹は裂け枝は折れ、多くの横倒しになった大木が道路をふさいでいた。今はその木々もきれいに片付けられ、アパートの吹き飛んだトタン屋根なども、新しいトタンを葺いて、あちこちで屋根が銀色に太陽光をはね返している。
日本のニュースでも中国四川省の地震ニュースに隠れて、ほとんど報道されなくなっている。TVニュースは映像がなければ、ニュース番組として成り立たない。ジャーナリストの入国を厳しく制限しているこの国では、取材も報道も難しい。
G&Gのマ・カインとピョーウェも救援活動に忙しく、ブログの更新が全くおざなりになっている。ピョーウェは、一般市民の青年団のようなグループに所属し、今も救援活動を精力的に行っている。 小船でしかいけない地区など、なかなか救援が行われていない地区などにも行き、今は今後の農作業に必要な、作付けのための籾や肥料、工作機械などの支援をしている。私も日本から預かってきた義援金や自前の費用で、スタッフたちと4回ほど救援に行ってきた。
多くのミャンマー人たちが、自国民を救うために立ち上がり、多くの支援物資を集め自分たちで現地まで運ぶ作業をやっている姿を見て。この国にまだまだ微かだけれども力強い「希望」があることを肌で感じた。

シティマートの移転

ヤンゴンで最も有名なスーパーマーケット、46ST店、アウンサンスタジアム店、ヤンキーセンター店、等など何処もお客が多く繁盛しているチェーン展開のスーパーマーケットだ。先月、サンチャウンのダゴンセンターにあったシティマートが移転した。爆発騒ぎもあったし、去年の雨季には地下の駐車場と倉庫が浸水して甚大な被害を受けた。
ヤンゴンで最も有名なスーパーマーケット、46ST店、アウンサンスタジアム店、ヤンキーセンター店、等など何処もお客が多く繁盛しているチェーン展開のスーパーマーケットだ。先月、サンチャウンのダゴンセンターにあったシティマートが移転した。爆発騒ぎもあったし、去年の雨季には地下の駐車場と倉庫が浸水して甚大な被害を受けた。
移転先は、ミャンマー国で一番にぎやかなミョーテイ(ダウンタウン)の、マハバンドゥーラ通りと、ポンジー(坊さん)通りの交差点。ポンジー通りはダウンタウンを北に抜けると、空港まで通じるピーロードになるので、ヤンゴン1の主要幹線道路である。  
シティマートは毎回最高の場所を選び、またヤンキンセンターもダゴンセンターもシティマートが入店したから成功したとまで言われている。シティマートが抜けたダゴンセンターはこれからどう巻き返してゆくのか?また元は警察署があった場所が移転した新しいシティマート、これから先あの周辺がどう発展してゆくのか楽しみである。

ヤンゴン 今日この頃

ヤンゴン 今日この頃、ミャンマー情報
4月になってしまった。ミャンマー人にとって4月はティンジャン(水祭り)新年を迎える月。去年から休みが10日間もあるので、長期の休みをどう過ごすか?お金をどう用意するか? 皆プランをあれこれ練っている頃である。
今日で3月31日4月1日と雨が降って、早々と雨季に入ったような印象を受けるが、大体雨季はミャンマーの暦では5月から始まる。私の記憶では9年前のティンジャンの最中に雨が降ってそれが雨季の始まりだった事がある。この雨は何なのだろうか?

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二つのパゴダ

ヤンゴン市内観光で見所です。
前にも紹介したかもしれない。久しぶりに友人宅に子供の誕生祝うパーティに呼ばれた。夫は58歳、妻は15歳若いが結婚して14年間も子宝に恵まれなかった。ミャンマー国中のパゴダに祈願したが、一向に妊娠しなかったそうだ。
4年前にヤカイン州のミヤウの古いパゴダに夫婦して祈願したら、その年に娘に恵まれ、次の年に長男にも恵まれたそうだ。この家の窓からこれ以上の景色は無いだろうと思われる、スーレーパゴダとシュエダゴンパゴダが同時に眺めることが出来る。
画面 左からスーレーパゴダ、FMIビル、シュエダゴンパゴダ、グランドミヤタホテル、トレーダーズホテル その手前が市庁舎