ビルマ語を習いだしたのは、15年前。
JRに乗って、某工業大学にビルマ人留学生がいるというので、その女学生に1年間習い、後はヤンゴンに来て学んだが、40歳半ばからスタートの語学学習は、、、実りの少ないものだと
身に染みて感じる此の頃。
昨日の友人のブログのシャン麺の表記に、いろいろな人がコメントを書いていた。友人はシャン麺と書いているのだが、
以下3人の人は、
シャンカオスエィ
シャンカォッスエ
シャンカウスエ
ビルマ語を日本語表記で表すって、
本当に難しい。
私だと、、、
シャン カウッスウェ かな?
カウスウェかも?
友人が、Netで調べて出てきたら正解かな?
とも言っていたし、
別の友人は
書かれたものを第3者に発音してもらって、
ミャンマー人がOKなら、正解だと。
だがしかし、ビルマ語を完璧に表記できるのは、
ビルマ語しかないというのが結論だろうか?
再び再開するヤンゴンエアー航空会社
ヤンゴンエアウエイズ(Yangon Airways)は2010年12月から突然運航が停止されましたが再び運航することになります。10月16日から再開する予定で、スケジュール表も出ています。
そのため、ミャンマー国内航空会社はすべて5社となってしまいます。
ヤンゴンエアウエイズ、エアマンダレー、エアバガン、Asian Wings、Air KBZ(エアカンボーザ)とさまざまになってきました。
マンダレーで楽しめるご飯とおかず
マンダレーで楽しめるシャン族の作り方で、作られているお店です。出ているのはご飯とおかずとなりますが、ミャンマー料理より油が減っています。特に野菜炒めは美味しいです。写真のとおり、いくつかのおかずが並んでいますが、好きなおかずを入れても大丈夫です。
ただし、食べ放題の雰囲気ですが、食べ放題ではありません。最初の1回目では自由に好きなものを好きな量で取ることは大丈夫ですが、2回目で取る場合は、追加料金がかかってしまうようです。最初は2000チャットからです。
おかずの種類が多くて、どれも美味しいですし、野菜は新鮮です。お金の取り方だけは微妙ですので、最初から確認して、楽しめると無難と思います。
ヤンゴンの街角 忘れ物のに道の端にポツンと、、、
前々から気になっていた。今日はたまたまカメラを持っていたので、撮影できた。分英国統治時代の街灯の基礎部分だと思われる。何故ここにだけ1本のみ残されているのだろうか?
とても不思議な気がする。しかし、誰も、そんな事を気にする風もなく、街行く人も車も全くこの柱に無関心である。しかし、何で撤去されないのだろうか?結構邪魔なんじゃないかとも思えるのに、、、
1860年頃に、技師のフレーザー等の尽力で、ダウンタウンの街づくりが完成を見たというから、もしかしたら100年以上この場所に立ち続けている柱かも知れない。アノヤター通りと35通りの交差点付近。100年間、この柱は、見続けている。
英国時代、第2次世界大戦中の3年間の日本軍支配、1948年英国から完全独立ウ・ヌーの時代 (国民党の残党,共産主義者、カレン民族独立部隊 )全く統制が出来ない時代、ネーウィンによる鎖国政策 軍政と民主化運動 そして、今のミャンマー果たして、新政府は暁光をもたらすのだろうか??
犯罪新聞
サテンにおいてあったムーキンタディン(Craime News Journal)犯罪だけを扱った新聞を読んでいた。
読んでいた犯罪新聞に、天井裏の小さな割れ目から会社の事務所に深夜侵入して、3900万ksを盗んだ20歳の男が逮捕された記事が興味を引いた。タイトルは「盗んだ金を湯水のように使った夫婦」
ジャンジュネの「泥棒日記」を引き合いに出すまでもなく、犯罪者は「悪の華」ある種の魅力を備えた悪党ドモが多い。事件の記事には必ず犯人の写真が掲載されている。
バイクで通行人の女性のネックレスやバッグなどを奪った23歳の男。 長身できつね目で東洋風な男は、妹の夫を殺し。店からレップトップを6台盗んだ3人組み。自転車を3台盗んだ体育会系男、オートバイを6台盗んだマッチョ2人組。
ミャンマーラウェイ「MYANMAR JAPAN GOODWILL LETWHAY」
8月13日14日、ミャンマー日本のラウェイ(キックボクシング)の親善試合が開催された。私は14日の試合を見て来た。
まず会場が、初めてラウェイ専用のスタジアムが完成した。カンドーヂ湖 東南湖畔。10数年前から工事が中断したり、草が生い茂って廃墟のような建造物だったのが、6、7年位前に工事が再開し、また中断しを繰り返してやっと完成したスタジアムである。
やっと完成したラウェー専用スタジアム
タイのバンコクも、ムウェタイが大きな観光資源になっているので、ミャンマー・ラウェイも、これから先外国人にもどんどん人気が高まっていってほしい。13日の結果は、日本人1名が引き分け、もう1人が負けたそうだ。14日の日本人出場者は、SAMUKAWA選手と、’CRAZY884選手。
最後の王妃 スーパヤーラッとコーミンコーチン通り
「コーミンコーチン通り」
何てこと無い写真で失礼します。タクシーを止めてパチリと撮った1枚。
コーミンコーチン通りをずっと捜していた。日本大使館があるナッマウン通りに繋がるだけを手がかりに捜していたら、今までカバエーパゴダ通りだと思っていた、シュウェダゴンパゴダ東門の前の通りと交差するアタリから、シュウェゴンダインの交差点までの短い700米くらいをコーミンコーチン通りという事が分かった。
ビルマ最後の王朝コンバウンの最後の王ティーボーミンが妻や子供と、王都マンダレーの王宮を追放され、インドのボンベイの南ラトナギリに幽閉されたのは1886年の事。1916年にティーボー王が亡くなると、王妃は許されてマンダレーには帰れなかったものの、ラングーン(ヤンゴン)のコーミンコーチン通りに、亡くなるまで住んでいたという。 ほとんど100年前の出来事である。
直ぐ近くにあるシュウェダゴンパゴダが大きな慰めになった事だろう。
随分前、多分10年近く前に買ったBurmahという英文の写真集(スコットランドで上梓され、1855年から1925年のビルマを撮影)に、シュウェダゴンパゴダで撮影された、ティーボー王と王妃スーパヤーラッの写真を見つけた。写真集の中にもう1枚「王と王妃」と題した写真が彩色されポストカードになって掲載されていた。
やはり色ツキのほうがきれいだなぁと思って、見ているうちにこちらの写真は王夫妻ではない事が分かってきた。多分 モデルを使ってスタジオで撮られたものである。
王妃役もふくよかな美人で王もキムタクばりのハンサムである。王の役は当時超人気のミンター(役者)ポーセインではないかと思う。因みに、王子も役者(男)も、ミャンマー語では同じ「ミンター」と言う。王女と女優も同じで「ミンタミー」
王妃 スーパヤーラッは、コーミンコーチン通りの住まいで、何を見、何を感じて最晩年を過ごしていたのだろうか?
変貌著しいヤンゴン
サウンチャウンの交差点に完成間近かの全面ガラス貼りのビルディング。
先日 友人の車でサウンチャウンの交差点、ヤンゴンでも2番目ににぎやかな繁華街を通りかかって、ビックリしたのは、何時のまにかこんな高層ビル(ミャンマー的には15階以上は高層ビルです)が建設されていた。全面ガラス張りで2008年5月のナギリス級のサイクロンが襲ってきたらどうなるんだろうかと思った。
こんな新しい建造物が出来ると、以前はそこに何があったのか?全く思い出せない。そんな感慨にはお構いなしに、ヤンゴンの街並みは日々生き物のように変化し続けている。あちこちで再開発や新しいビルが建設中なので、しばらくヤンゴンを訪問されていない方は驚かれると思う。
日本円で51億円の値が付いた、サウンチャウンの映画館跡 0.4エーカーの敷地面積。
そのサウンチャウン、上記のビルにも程近い古い映画館が、競売にかけられた。なんと日本円で51億円で落札された。企業ではなくて、確か個人が購入したとジャーナルは伝えていた。
今ヤンゴンやヤンゴン周辺、そしてタイのバンコクまで車道や鉄道が敷かれ、深海港の設備を進めているダウェーの不動産が、1980年代のバブルの頃の日本をしのぐ勢いで、倍々ゲームで高騰している。(ヤンゴンの不動産を扱うジャーナル「ゼイクウェ」にも、最近はダウェーの土地が記載されている。)
ミャンマーは完全に土地バブルに揺れているようだ。
☆英国人の社交場ペグークラブ
次に驚いたのは、英国統治時代、英国人の社交の場だったパゴー(ペグー)クラブを初めて見つけた事だ。
ダウンタウンから行くと国立博物館の一つ手前の路地を右に曲がると、ロシア大使館の無味乾燥な門扉の前に、パゴークラブは、その百年前の姿を残しつつ、朽ち果ててまぼろしのように陽光の中に佇んでいた。
一応警察官が詰め所にいたが、「撮影していいか?」と聞くと、「いいともいけないとも言えない」と弱弱しく言うので、2000KSを、手の中に押し込んで中にズンズン入っていって撮影した。
大きな玄関かホールのような建物が向こうに見えたが、数匹の犬がうるさく吠えるので、遠くからの撮影になった。どうもそこが入り口だと思うが犬が怖くて近寄れなかった。
多分英国時代は、ピィーロードから直接入れる構造だったのではと思う。そして思い出したのは、以前福岡在住のM女史(従軍慰安婦の研究家)から、ここが日本軍が占領時、ヤンゴン市内6箇所あった慰安所の一つだと聞いていたのだ。久留米から芸者衆も何人が来ていたと言う話である。
慰安婦のことを書いて思い出したのは、それより以前に明治時代に、1890年以降1920年代まで、ミャンマーの地に「から行きさん」と呼ばれる女性達が、累計すると数百人いたという。その中にはこの地で命を落とした女性も少なからずいた事と思う。
その人達の墓が、トレーダーズホテルの駐車場の横、スーレーパゴダ通りに面した今は有料トイレが設置してある場所にあったという話を聞いた。そんな一等地にと最初は信じられなかった。
最近読んだ土橋泰子先生の著書「ビルマ万華鏡」にも、ピィーロードとタムウェの2箇所に日本人墓地があり、1998年11月に、ミンガラドン地区に移転されたとある。
しかし、から行きさんの墓の話は、まるで聞いたことが無く、実はサクラタワーで歯科クリニックを開いている、博識のウ・トントントゥエに聞いたのだが、やは
り多くの日本人が、から行きさんを日本人墓地に入れたくなかったのではないかと推測できる。
死んでからも差別された女性達の遺骨は、果たして新しい日本人墓地に葬られたのだろうか?タムウェの元の日本人墓地は、かなり荒れ果てていたようで、私がミャンマーに来た1998年に移転されるまで、今現在去年2010年5月に大火事で燃えたミンガラー市場がその場所だったと聞いた。
つわものどもが夢の跡 ラングーン(ヤンゴン)
ヤンゴンのダウンタウンの街並みは英国統治時代に整備されたものだが、それよりも更に古い時代、日本の戦国時代と同時代、 下ビルマの覇権をめぐっては、ビルマ族とモン族が血で血を洗うような戦いを繰り返していた時代に、タンリン地区に16世末から17世紀にかけて30年間、自国の王国を作った
ポルトガル人プリトーという男がいた。
プリトーが建立した丘の上に立つ教会を、先日写真を撮影する事が出来た。この場所は 現在政府の管理地にあたり(直ぐ裏に英国時代からあるミャンマー最大の石油の精製工場があるため)一般人は立ち入り禁止地区になっている。
今から400年位前、日本では豊臣秀吉やお茶の千利休の時代である。 外国人の プリトーが、モン族の後ろ盾を背景に、ビルマ人と対峙しながらも、小さな王国を造っていたとは、なんと興味深いドラマだるか?
そして、シリアム(現在タンリン)港から盛んに貿易も行っていたという。 その頃まだヤンゴン(当時はダゴン)港はまだ整備されてなくて、パゴーの港と並ぶ良港(河の港です)だったのだ。
去年訪れたピュー族のベイタノー遺跡のように、またはヤカイン族のミヤウにある王宮跡地のように、地面にわずかばかりのレンガの基礎が残ってるものと思っていた。
ところが草が生い茂る丘の上のプリトーの教会は、訪れる人もいないパゴー河を臨む丘の上に、400年間の雨風に耐え、柱や壁は生い茂るツタや木々、草花と共存しながら頑強にレンガ建築の美しい姿を残していた。
まさに 夏草や つわものどもが 夢の跡