チャイカウッ・パゴダの祭り1

チャイカウッ・パゴダの祭り1
チャイカウッ・パゴダの祭り1
ミャンマーは乾季の終わり、全国各地で満月のパゴダ祭りが賑やかに開催されてる。昨日(2月9日 月曜日 満月)ターリン地区にあるチャイカウッ・パゴダの祭りに行って来た。ターリン地区は、ヤンゴン市街から、川を越えてタケダ地区から全長2kmのターリン大橋をわたって車で40分で行ける。
正確には覚えていないが、多分前回来たのは8,9年前と思う。その時もあまりの人出に驚いたが、今回は月曜日の夜というのに、10万人以上の人出で、パゴダの近所は前に進むのも歩くのも困難なほど、人、人、人の波であった。前回はカメラマンの日本人と行ったが、今回もスタッフ10名と高校時代の同級生で医者の友人を連れて出かけた。
友人はここ10年間に毎年やってくるので、何度か祭りにも遭遇しているがこれほどの人出の祭りは初めてで、祭り会場に多くの店がスピーカーで大音響の音楽や口上を言っているので、ゆっくり話すのもままならない。

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津軽三味線のコンサート

ミャンマーの津軽三味線のコンサート
昨日2月6日。  元NIKKO Hotel 今現在 タイ資本のChatrium Hotelになって、初めて行った。 歩いても10分もかからない距離にある。そのホテルのバウホールで、「ジャパン メコン交流年」の第1弾として、青森県から津軽三味線の2人組みの女の子、「あんみ通」のコンサートが午後3時から開催された。 開場は席が足りなくて、イスを追加するほどの盛況で、300人近い観客が演奏を楽しんだ。
2人とも津軽三味線の数々のコンテストで優秀な成績を取った2人組で、1人がボーカルもかねる。声量豊かで、ミャンマーでもヒットしている「花」という曲を、日本語とミャンマー語で歌って、ヤンヤの喝采を浴びていた。

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冬から一気に真夏へ


ミャンマーでは、3つの季節があるとされている。十数年前、ミャンマーの小学生の教科書で、ビルマ語を習った。そこには、乾期(涼季とかミャンマーの冬とも呼ばれている)暑季 、そして雨季がある。 それぞれ4ヶ月x3つの季節と習ったが、実際は雨季が半年くらい続く。10月の中ごろに完全に雨季が明けて、乾期が始まり、12月などは朝などは非常に寒い。
日本にいる方は、亜熱帯のミャンマーが寒いなんて、想像も出来ないだろうが、寒がりで虚弱体質の私は、寝るときは今もそうだが、必ず靴下はいて寝ている。1週間くらい前から、朝起きると霧?朝もや? 10メートル先は何も見えない。そして、少し前まで、観測史上最低気温を記録したとニュースで言っていたのに、日中はカーと暑くなって、アンダーシャツ1枚になっているくらいである。本当に、舞台の早変わりではないが、冬から一気に夏に突入のヤンゴンである。そして、4月の水祭りティンジャン(別名 ミャンマー正月)も過ぎて、5月になると雨季に入る。それからは長い長うんざりするような雨の季節が続く。
季節というのは、人間の性格にどれくらい影響を与えるのだろうか?長い長い雨季を耐え抜くしぶとさを持っている反面、冬から急転下夏に突入するように、短気で感情を一気に爆発させるミャンマー人も、いるにはいる。
有難いことに、私の周りにはいないが、、、

ヤンゴンのとある景色


この風景は以前にも何度かブログに書いたかもしれない。しかし、これほどの景観が見れる場所というのは、そうあるものではない。友人の弁護士宅からの眺めである。旧アメリカ大使館とインド大使館にはさまれたアパートの7階。
ヤンゴンで最も有名なシュエタゴン・パゴダとスーレーパゴダが、2つ同時に見える。奥まったところに鎮座ましますのが、ミャンマー随一のシュエタゴンパゴダ。そして左端にある八角形のスーレーパゴダ。
ヤンゴンの地名に「6マイル半」「8マイル」「9マイル」「10マイル」等がある。これはスーレーパゴダが基点で、ここからの距離がそのまま地名になったもの。そのほかに写真の中には、ヤンゴン市庁舎、最高裁判所、トレーダーズホテルその向かいのサクラタワー、FMIビル、グランドミヤター・ホテルなども入っている。弁護士の友人は58歳、結婚15年目に長女、17年目に長男を授かって、今幸せ一杯の家族である。
何でも、15年間あちこちのパゴダに「子供が授かるように」お参りしたらしいが、いっこうに効果がなかったそうだ。3年前にヤカイン州のパゴダに参ったところ、やっと念願かなって妊娠したので、先日家族でお礼の参拝に行ったと話していた。
しかし、長男が大学卒業する頃には、友人は78歳になる。酒も肉食もせず信心深く、弟子も多く、ますます仕事もがんばっている。私も本を発売したが、なかなか売れずに月に50,60冊しか売れていないが、弁護士の友人の本は1500冊売り切れ、第二版が出来上がって家に届いていた。私もいただいたが、「犯罪捜査の指紋照合の、、」という専門書で、法律関係の人によく売れているらしい。ミャンマーの出版界は、1000冊売れたらベストセラーだそうだ。

ヤンゴン港から観光コース

ヤンゴン川からフェリーを乗って対岸にあるダラ町へ行く観光コース
ヤンゴン川からフェリーを乗って対岸にあるダラ町へ行く観光コース
ヤンゴン川からフェリーを乗って対岸にあるダラ町へ行く観光コースは5月のサイクロン被害を受けた後から立ち入り禁止になっていました。ただし、今は行けるようになりましたようで、個人ツアーの外国人の姿を見ました。ただの川を乗り越えるだけで風景は違って行くし、一般的な生活様式を見学できますので観光客がよく行かれる場所です。

ヤンゴン物語

ヤンゴンミャンマー情報
小津安二郎監督の映画「東京物語」は、私が生まれた1953年に上映された名作で、日本映画の最高傑作と評価する映画評論家もいるらしい。私はこの「東京物語」を、15.6年前に見たと記憶する。その頃でも40年前の映画である。映画の中で話される日本語があまりに美しいので感動した。
田舎から年取った老夫婦が東京に出てくる。医者になっている長男や美容院を経営してている長女は、そんな両親をあまり面倒を見ない。一番心を尽くしてくれたのが、戦争で亡くなった次男の嫁で原節子演じる女性だったというストーリーだ。

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WALKING

カンドーチ湖周辺の様子です
Photoは、12月25日木曜日の午前6時少し過ぎの、カンドーチ湖周辺の様子です。金曜日、土曜日ともなるともっと人が多く、まるでお祭りのような騒ぎです。多分この歩道は、朝が一番人が通る道で、日中や夜などはめったに歩く人もいない。
毎朝、愛犬のルーシー(ダルメシャン)と、4.3kmほどあるこの湖の周りを一周している。ここに引っ越してきたのは9年前。その頃にはこんなに多くの人がWalkingなどやってなかったっと思う。これほど人が多くなったのは、3年くらい前だろうか、日を追ってゆくごとに人が増えて、早朝5時過ぎ未だ日の出前の薄暗いうちから人が歩き始めている。
私のように湖の直ぐそばに住む人は、このコースに来るのはたやすいことだが、かなり遠方から歩いてここまで来る人もいるし、車で来ている人たちも多い。またWalkingを日課にしている人たちを当て込んだ、商売人も早朝から食べ物の屋台、体重計を持ってきて体重を量ることでお金をもらっている人もいるし、スポーツウェアーを売っている人たちも多い。
スポーツウェアーといえば、以前は見かけなかった、シューズからパンツとかランニングシャツにいたるまで、完璧にスポーツスタイルの人も増えてきている。これだけ健康志向の人が多いのに内心驚いている。

耳のお医者さん?

まだまだ知らないヤンゴンがたくさんある。秘書のゾーミントゥン、ミャンマー人離れした顔をしている。獅子鼻、しゃくれたあご、鋭い眉、その割には鈍い感性。顔自体が異様なのでIRAQ(イラク人ミャンマーも英語と同じイラキと呼ぶ)と日ごろ呼んでいる。
辞めていった子やマレーシアに行ったスタッフなど全部あわせると、60人位いたろうか? 全て田舎出身の金も学歴もないスタッフに、日本語学校やコンピューターのスクールに行かせたり、美容の学校で学ばせたりして育ててきたが、大卒は3,4人しかいない。その数少ない大卒の一人がこのイラキである。感性は鈍いがよく働く。 粘着力があるので、交渉事など任せると大体良い結果に納まる。
そのイラキが2,3日前から、右の耳が聞こえないと言い出した。それで病院に連れてゆくことにした。すると、イラキの従兄弟でマネージャーを任せている奴が、「耳の専門の病院(タムエの近くにある)に行っても直らないよ。僕がいいところ知ってます」と車で30ST,の狭い路地に出かけた。
そこはビルとビルの隙間のスペースに5,6人の、免許をもたない医者モドキがたむろするクリニックスペースだった。 すでに、10人近い患者が来ている。はじめイラキの難聴は,私が4年前にかかった突発性難聴(中年男性におおく、浜崎あゆみで有名になった)だと思った。ストレスが原因といわれている、1ヶ月以内に治療するとかなりの確率で改善するそうである。私は日本への帰国が遅れ、今も左耳がほとんど聞こえない。
それで、日ごろ難しい仕事にイラキを酷使しているので、仕事のストレスからの突発性難聴と思っていたのだが、ここのモドキ先生、「こりゃひどいね。ものすごくたまっているよ。」と、細い金属の器具に脱脂綿をつけて耳の穴を掃除すると、黄色の膿のようなものが、どんどん付いて来る。
「わぁ~汚い」と言っているうちに、当のイラキが「あっ聞こえる」と叫んで、一件落着。ただ単に耳の掃除を全くやってなくて、膿や垢がたまって穴の中をふさぎ聞こえなくしていたのだ。私と同じ病気ではなかった事に、ほっとした。まだまだ知らないミャンマーが、たくさんあるのだ。

サヤーとウッレーの間

ミャンマーに漂着して早10年。ミャンマー人から本名で呼ばれる事は、ほとんどなくなった。G&G旅行社のマ・カインカインエーが、唯一私を本名で呼ぶ。他はほとんどがサヤーで済んでいる。サヤーは本来「先生」という意味だが、会社でも上司はサヤーで済まされる。またレストランなどでも、従業員はお客をサヤーと、呼んでいるようだ。
しかし、時々、道端で話しかけられる場合や、服などを買った店で「ウとかウッレー」と呼ばれることがある。意味はおじさんという言う意味で、年齢的にも立派なおじさんなので、別にウーと呼ばれることに不満がある訳ではない。
最初惑ったのは、サヤーとウーの違いである。ジョルダーノというファッション・メーカーがある。本社がタイの製品だか?香港だか知らないが、このメーカーも、ミャンマーに進出して10年、店舗も増え客はほとんどミャンマーの裕福層。
ここの女性店長は、絶対に私をサヤーと呼ばない。ウーである。☆他の服飾の店では、かなり年配のオーナーでも、私を「サヤー」と呼びかける店もあるのだ。サヤーという言葉の意味するものは、呼びかける者が「自分はあなたより下ですよ」という意味も含まれているし、より親しい場合に使われる。また、ウーという呼びかけが尊敬の意味が全然ないわけでもない。言葉ひとつの問題だがウーンなかなか奥深い。

ヤンゴンの霧


日曜日の朝、早く目がさめてきましたました。家の前から「モーヒィン」が降っていますと喜んで叫んだ声を聞きました。ベッドを離れ、早速玄関へ出てみました。涼しい~、気持ちいい~。外は白いショールでかけられたように霧がたくさん降っていました。乾期の匂いがしましたと思いました。