パゴーの寝釈迦
パガンのパゴダ群の中で2番目に背の高いゴードパリン寺院 55米
チャイティーヨーパゴダ そもそもチャイというのがモン語で「パゴダ」の意味である。
「ミャンマーで1つだけパゴダをあげよ」と言われたならば、歴史的価値、その壮麗さ、重厚さどれをとっても、シュエタゴン・パゴダをまず第一にあげなければならないだろう。
そして世界秘境50選にも選ばれた、1000年前の碑文にも登場するチャイティーヨーパゴダも、はずす訳にはゆかない。
この旅行者にも有名な2つのパゴダは、実はモン族の文化遺産なんです。
パガンのたくさんのパゴダ遺跡も、、 内部に装飾されたフラスコ画などの多くの壁画はモン王国から連れて来られた絵師達の手に寄るものです。
ヤンゴン市内にある、通りの名でチャイカサン通りなどはモン語です。この国に9世紀の後半に、北のほうから下って来たビルマ族は、後から来た民族なんですね。
ピュー族の王国(2~9世紀)が消滅した1000年以上前にも、つまりビルマ族がやってくる以前、ミャンマー各地には今日見られる小数民族の、パラウン族、ヤカイン族 テッ族シャン族 そしてモン族などがすでに独自の生活様式で暮らしていたそうです。
特にモン族の歴史は古く、紀元前1500年には東南アジアに現れて、BC300年頃には今のタイにスワンナプーム王国を建国した。因みにこのスワンナプームの王国名がタイ、バンコクの新空港に使われている。
(カヤー州ルインコーを回ったガイドさんが教えてくれた)
またBC2世紀には上座部仏教を受け入れ、ビルマ文字の元になったモン文字なども使用しモン族は高度な文明を築いていたんですね。
タイからミャンマーのパゴー(ペグー)にかけて、1000年前から王国を築いていたモン族はタライン族とも呼ばれ、パゴーやタトンはその都として発展しました。
1755年 ビルマ族のアラウンパヤー王が、ダゴンと呼ばれていた今のヤンゴンを占領し、ヤン(戦い)コン(尽きた)と言う意味の名前をつけたのです。
よく言われるようにラングーンという名前を、突如強引にヤンゴンに変えたというのは実は誤りで、ミャンマーの人々は、255年前からヤンゴンと呼び続けている町なんです。
今現在は、モン族はビルマ族の中に溶け込んでいるように見えます。美男美女が多いともいわれ、理髪店経営やそのスタッフにモン族が多いのも、
パガンの寺院の壁画を飾った先人の美的センスのDNAを受け継いでいるいるせいかもしれない。
今日の両替レート
最近は米ドルの両替レートは下がっています。今日の時点で米ドルは100札の場合は1ドル/1000チャットになっています。細かい札の場合は1ドル/990チャットです。兌換券も1ドル/1000チャットになっています。通常は兌換券より米ドルの方はよいレートでしたが、昨日までは兌換券の方は上になって、今日は同じレートになっています。不思議なこの頃のレートです。
ミャンマーのビーチリゾート
ガパリ・ビーチの有名な人魚像
人気があって有名なビーチは、ヤカイン州とエーヤワーディ管区のベンガル湾に面しています。
ガッパリ・ビーチ
ヤカイン州 タンドウェ空港から車なら10分15分で行けるガッパリ・ビーチで、外国人向けの高級リゾート地です。すばらしいホテルが軒を並べています。 イタリア人がナポリに似ていると言った言葉がガッパリの名称になったと言われています。 砂浜 海水とも最高に美しいです。
海岸に有名な人漁の像があります。ヤンゴンからのアクセスは飛行機利用が一般的です。欧米人が多く、ミャンマー人はほとんど見かけません。
もう一度行きたいチャイントン(シャン州)
温泉 個室でお湯に入るバンガローが繁盛していた。
オートバイを改造した3輪車 トンベインカー 三(トン)輪(ベイン)車(カー)
民族衣装のアカ族
先週 カヤー州ルインコーに行ったことで、ミャンマー国内全7州全7管区すべて足跡を残した私だが、まだまだ行ってない場所も多い。プータオ、インドージ湖 ビクトリア山、など今後の課題である。
よく人様から尋ねられるのが、「どこが一番よかったですか?」と言う質問である。1番を決めるのは非常に難しいが、もう一度行きたい地は チャイントンだと答えている。英語表記ではKengtungであるが、ミャンマー人の実際の発音は、チャイントンと聞こえる。
チャイントンは、有名なパゴダがあるわけでもなし、パガンのように歴史的建造物もない。景色にしても、チャイティーヨーやインレー湖のほうが、はるかに美しいかもしれない。少数民族を尋ねるトレッキングもカローを超えるものがある訳ない。
なのに、なぜ心惹かれるのかよくわからないが、、、ずいぶん前に失われた日本の田舎の風景を思い出させるからかもしれない。
トレッキングで、アカ族やアミ族を訪ねたが、ヨーロッパの女性が、アカ族の家まで入って見ていたが、先日のパラウン族(首長族)の家でも、「家の中見れますよ」と言われても、やはり他人のプライバシーは覗きたくない。それで、チャイントンでも6村行く予定のトッレッキングを2つの村で終わりにしてもらった。
このあたりの農家の家が日本の田舎の農家の造りに(昭和30年くらいの)、似ているのに驚いた。チャイントンに伝説が残っている。
300年くらい前だろうか?ビルマ軍によって破壊されたタイのアユタヤの日本人町(人口8000人)から逃げてきた倭人(日本人)150名ほどが、このタイとミャンマーの国境あたりに落ちのびて来たそうである。
倭人は礼儀正しいし教養もあったので、村の長が大切に保護し、村の娘達と結婚して定住したという。今でも日本の文化のいくつかが残っていると言う。あくまでも伝承でしかないが、ありうる話であると思う。チャイントンの市場で、黄粉 豆腐 こんにゃく、納豆なども売られていた。
忘れてはならないのが、温泉もある。 町から30分くらい車で行ったところに良質の温泉が沸いている。温泉は、ラショー、インレー湖、南のほうではタトン、ダウェー、コータウンなどの温泉にも入ってみたが、チャイントンの温泉が一番よかった。 又、施設としてもしっかりしていた。
カヤー州ルインコー(ロイコー)2 少数民族 (2)
ミャンマー全土の少数民族は、130とも135族とも言われています。私が実際に会って確認した民族は、25種族くらいです。
シャン州のラショーなどの朝市に行くと、たくさんの少数民族に出会えます。又、チャイントンやカローなどでは、少数民族の村を歩くトレッキングなどもあります。
パダウン族(首長族)
話は、先日行ったカヤー州のロイコーに戻って。友人から「もっとロイコーのことを書いてほしい。ロンリープラネットにも載っていないので、貴重だよ」とメールが来たので、少数民族パダウン族の村に行った事を書いてみよう。村の名前はサンポン村といい、ロイコーの中心から15分くらいで到着。その先は入域規制地区で、外国人はロイコーまでの許可を取っていても入れない。
写真の女性2名は50代から60歳代で、20から25連ある金色の(ブロンズ製)の首輪をはめている。寝るときも体をい洗う時もはずさないらしい。首輪と首の間に手を入れて器用に首を洗うと説明してくれた。5歳から首輪をつけ始め、最初は3連とか5連とか、大人になるにつれて首輪の数が増えてゆく。
ガイドさんとパダウン族(首長族)の女性
家には15歳のかわいらしい少女もいたが、この子は首輪をしていなかったし、この2名の女性を含み8名だけが首輪をしているらしい。ガイドさんが、「ありがとうございました」と言って、3名に2000KSづつ上手に撮影代を支払ってくれた。(写真は2名だが、3名撮影させてもらったので)
マンダレーを基点に、、、
ウペイン橋 200年前に作られた木製の橋、全長1,2km。
タウンボーティパゴダ まるでカラフルなケーキのよう。
ミングン(マンダレーの北部 船で1時間)のミングンパゴダ完成していたら世界最大のパゴダにになっていたでしょう。
マンダレーは、ミャンマー第2の大都市だが、よくガイドブックには日本の京都に例えられる。確かに碁盤の目のように町割ができていて、南北の通りの番地と、東西の通りの番地で場所を特定できる。しかし、ビルマ族最後の王都だったマンダレーは、実際に王都だったのは、わずか20年くらいのもので千年の都の京都に比べるべくもないと私は思う。
又、マンダレーヒルと、マハミャムニ・パゴダをのぞくとさほど見所もない。しかし、マンダレーを基点に、近隣地区に景勝地が点在している。アマラプラ、インワ、サガインヒル、モンユア、ミングン、パッコック、ピンウールインなどがそれである。
簡単に見所を述べると、
《アマラプラ 》
1,2kmも続く木製の風流なウペイン 橋が有名。
《インワ》
400年王都があったという割には、2,3の遺跡しか残っていない。地震で傾いたミャンマーのピサの斜塔、マハーアウンミェ僧院、チーク材で建立されているパガヤー僧院
《サガインヒル》
緑の丘に白いパゴダ群が美しい。 日本人戦没者をまつった慰霊塔も、他のパゴダの間にいくつか立っている。
《モンユア》
不思議なお菓子できたようなカラフルなタウンボーティパゴダ。チャウッカ村には大きな寝釈迦とその後ろに巨大な立像が完成したようだ。
《パコック》
バガンから船で行くこともできる。パガン時代からの古びたパゴダなどがある。
《ピンウールイン》
英国時代に避暑地として発展した、ミャンマーの軽井沢。花や洋館が多い街を華やかな馬車に揺られて、、、市内観光。洞窟のパゴダや中国に行きたくなかった仏像などが有名。歴史が100年を越すホテルもある。よく映画の撮影などに使われている。
インレー湖でマッサージNO1に会う!
旅行に行く前に、G&G旅行社から、「インレー湖ニャウンシュエに、ものすごく上手なマッサージがありますから、写真とってきて下さい」G&Gの客人のお一方が、ヤンゴン、マンダレー、パガンとマッサージしてもらったが、ここニャウンシュエが一番だった。」と言ったそうである。
しかし、場所が「え~っ」という感想だったらしい。その「え~っ」の意味が何なのか?がわからない。ちょっといかがわしい感じなのか? 汚いのか? うるさいのか? マッサージの場所としてふさわしくないのか?
宿泊したアメーズィング・ホテル(小型ホテルだけど、清潔でサービスが行き届いていた)のすぐ裏通り徒歩で5分くらいの場所にあった。Photoにあるように、「Massage Win Nyaunt」と赤と黄色の看板ですぐわかる。
インレー湖のニャウンシュエにすんでいるが、ビルマ族で37歳、子供は3人。兄の子供も3人計6人の子供が庭で遊んでいる。場所は、ビルマ的には普通の家で、カーテンで仕切られていたり、マットの上の白いシーツも清潔だし、何をもって「え~っ」なのかは?ちょっとわからない。
その客人もアメーズィング・ホテルに、宿泊していたらしいから、あのホテルと比べると、それは「え~っ」となるかもしれないが、私には快適な場所だった。マッサージは小1時間であった。
噂にたがわず「うまい」。そして「独特」の「リズム」がある。ミャンマーの伝統的なマッサージだと、ウィンニャウン君の説明である。「君のマッサージが一番よかった」と言う上記の客人の話をしたら、非常に喜んで彼は、手もよく動くが、口も饒舌だった。
2週間くらいの期間で講習会などもやっていて、韓国人、イスラエル人オーストラリア人などが習いに来たと得意げに話していた。1時間で5ドルまたは5000ks。インレー湖で体が凝ったらお試しあれ。
知っていると得!! ミャンマー式表記法
水道施設ができた年月日 1998年 6月11日
ミャンマーでは、
10/12
12月10日です。
10・12・2009
12月10日 2009年です。
バス旅行でいく場合は、トイレ休憩時には他のミャンマー人の後についてゆけば、男子トイレか女子トイレか、迷うことはありませんが、たとえば、1人でレストランの裏手にあるトイレに入る時、 ミャンマー語表記しか描いてありません。以下の写真をよく見てください。
女子用トイレ
男子用トイレ
バガンと鎌倉の間
日本帰りのビルマ人からたびたび聞くのが、鎌倉の大仏様の話である。私は奈良の大仏は高校の修学旅行時に見たことがあるが、鎌倉は行ったこともない。しかし、何人ものビルマ人が、鎌倉の大仏様のことをありがたく語る。故に鎌倉は東京在住のビルマ人の一大聖地になっている。ヤンゴンには、鎌倉の大仏を模した仏像を奉納されているパゴダもある。
パガンは、ビルマ族の王が11世紀に王都を開いた地で、13世紀までに5000基を数えるパゴダが建立されたという。今なお 2000基を超えるパゴダが、赤土の地に林立している。
このミャンマーの中央部で乾燥地帯のパガンと、遠く離れた鎌倉と、、、、どう繋がるのだろうか?
300年近く栄えたバガン王国は、1287年「元」モンゴル帝国の攻撃であっけなく滅びる。最後の王は、タヨーピィエー王という不名誉な俗名で歴史に名を残している。 つまりタヨー(中国、この場合元)からピィエー(逃げた)王という訳だ。その後この臆病な王は実子の王子に毒殺される。
そのころ鎌倉幕府も、元寇の脅威にさらされていた。文永の役(1274年)弘安の役(1281年)がそれである。弘安の役のモンゴル軍は14万人の大軍であったといわれている。2度とも台風が吹き荒れて、モンゴル軍の船団の多くが沈没し、鎌倉幕府は国難をからくも逃れることができた。が、その後鎌倉幕府も急激に衰退する。
北はモスクワ、西はヨーロッパのハンガリーやブルガリア、トルコ、東は韓国まで領土を広げたモンゴル帝国も、第5代クビライ・カァン王の死後ビルマからは、またたく間に撤退する。
故に、ビルマの国土にモンゴルの文化の痕跡はかけらも残されていない。しかし、パガンにビルマ族の繁栄は2度と再び戻ることはなかった。
チャイティーヨーで凍える!!!
チャイティーヨー = ゴールデンロック・パゴダ
またまた~大げさなタイトルです。 インレー湖上が寒いことは書きましたが、この乾季は気温が極端に下がることがあります。ヤンゴンでの生活では、今年はまだ「寒い」ほどではなく涼しいくらいですが、去年は結構寒い乾季でした。
私が、極端な「寒がり」ということもありますが、乾季はヤンゴンでも足が冷えるので就寝時に靴下を履いて寝ることもあるくらいです。
平素30度の室温が26度に下がるだけで、亜熱帯のミャンマーでは、「寒い」と感じられます。それが、1999年今から10年前の12月、4度までに下がったことがありました。 インドの北東からの寒気団がやってきて、もう寒くて寒くて、ヤンゴン市内では、中国製の古いデザインのもこもこしたジャンパーや防寒着が、強気の値段で売られてました。
テレビでは連日、「子供は厚着させて毛布を2枚以上重ねて寝かせ、夜中時々様子を見なさい。」そういう放送が何度も流されていた。
ちょうどそのころ、私の友人の2組がチャイティーヨーに行っていたそうだ。1組は、ヤンゴン外国大学に留学してすぐの女性2人組。 とにかく、恐ろしく寒くて、一晩中全く眠れなかったそうだ。
もう1組は、ミャンマー人と一緒にチャイティーヨーに行った日本男性。「ヤンゴンの感覚の装備で山の上まで行ったから、寒くて寒くて、足の爪が割れた」とこぼしていた。
亜熱帯のミャンマーですが、季節や場所によっては寒いことも多々あります。又、チャイティーヨーは、1000年前の碑文にも記録が残る、歴史的価値、その山々の景観の美しさなど、第一級の景勝地です。
それを日帰りで行く人が多いのが、本当に残念です。日帰りでいけないことはないですが、チャイティーヨーの山頂に着いたら、記念写真を撮ったらすぐに下山とは、本当にもったいない。
チャイティーヨー一帯は、自然動物保護地区で、日本でいう国立公園です。周りの山々、又由緒あるパゴダも道中たくさんあります。
山頂で1ヶ月くらいロングステイする欧米人もいるくらいです。できれば一泊して、この美しい景観を存分に味わってもらいたいですね。