曇り空の下、荒れる波頭、浜辺のオブジェのような流木。
見事なロブスター。湯がく前は、深い緑色をしていた。今回は自分達がとったものではなく、近くの漁村から買ったもの。 日本の価格に比べたら信じられないほど安い。
「雨季にビーチに行くなんて!」
とミャンマー人達に言われてしまったが、去年の7月に続いて、今年も懲りもせずにグイサウンビーチに5月21日から3泊4日で行ってきた。
誘ってくれたMの話によると、雨季が始まってまだ1週間、海の水がにごるのはもっと先だし、十分魚が採れると、途中にあるバテインで網やモリなども買い求め、Mが日本から持ってきたつり竿も狭い車内に収まっていた。
車は狭いというもんじゃない、ジープに屋根をつけてクーラーもつけているが、本来前の席はゆったりしているが後ろは狭い。運転席にMその隣の助手席は、やはり「魚がたくさん採れる」という言葉に誘われた、日本からやって来たMのおばさん、酒飲みでおしゃべりで料理がうまい、、、という触れ込み。「ビーチで採れた魚で酒のつまみを作リましょう」と意気盛んであった。
後部座席にビルマ人2名と私3人押し込まれ、なんと小型犬のチビまで乗車している。
「犬 預けなかったの?」と聞くと。「いつも預けるとノミもらってくるから、今回は一緒に連れて来た。」とMの説明。まぁ犬は嫌いじゃないが、この犬少し臭い。又狭い後部座席をあちらこちら移動する。うちで昔飼ってた犬は、車に乗せるともどしていたが、チビはそれはなかった。
こうして珍道中は始まった。
ヤンゴンから、雨の中西へ向かう。バテインまで4時間、そこから低い山を越えてグイサインまで約2時間の行程である。 バテインで腹ごしらえをした。
私にとっては1年ぶりのグイサンビーチ、シュエヒンダーホテル。
島はシュエヒンダー ホテルより西に300米、ビーチから150米しか離れていない。 時刻によっては海水が引きオートバイでも渡れるが、、、満潮時は左右から波が寄せてきて、波と波がぶつかると、3,4メートルの波の塔になる。
何でもこのホテル、乾季(10月~1月) 暑季(2月~5月)にかけて、ここら辺で一番お客が多かったそうだ。 理由は簡単料金が他に比べてずいぶん安いのだ。しかし、レストランや喫茶店雑貨屋などが固まってある場所までかなり遠い。歩くと40分はかかる。それでオートバイをレンタルで借りると1日(10ドル)これを加えると、それほど安いわけではない。しかし、このビーチはオートバイがないと身動きが出来ない。
去年は干潮時には浜と陸続きになる島へ、オートバイで渡った。ビーチから150米しか離れていない名もない小島。去年はここでカレーや蟹が採れた。
投稿者: Golden Garden Tour
待望の雨が降った。
ミンガラバー
Bederです。ヤンゴンは炎熱地獄が続いています。
室温で35℃以上、深夜になっても温度は下がらず、外は日中は40℃を越す日々がここ1ヶ月以上続いてます。
ヤンゴンに暮らして13回目の夏(暑季2月~5月)ですが、これほど暑い夏も記憶に無いです。気象局の発表では、50年ぶりの猛暑だそうだ。
それで、1週間前から24時間エアコンが効いているホテルに避難してる。朝7時半、ホテルの窓を開けてみると今年初めての雨が降っていた。かなり激し降ったものの、僅か10分間で止んでしまった。
その後小雨が昼過ぎて少し降って、ヤンゴンの乾燥した木々も緑が雨を受けてみずみずしく輝いている。
雨が降ると開花するパダウの花も咲くことだろう。これが一時的な雨なのか、雨季の始まりなのか。もう少し様子を見ないと分からない。水力発電も水不足で停電が続くヤンゴン。電気の供給がまったく無い日もある。
早く! 早く!本格的に雨季になって欲しい。
国境の町タチレイ②
市場ではもっぱらタイ語 時に中国語 シャン語 しかし、ほとんどミャンマー人なので、ミャンマー語も通じた。看板は、ほとんどミャンマー語 タイ語英語3ヶ国語の表記
タイのバーミーナーム 35バーツだった。味付けは、テーブルの上にあるさまざまな香辛料、醤油、砂糖などを使って自分の好みに出来る。
タイレイは、タイのメーサイからサーイ河をはさんで向かい合っている。タイ側からは、外国人でも午前6時から夕方6時までミャンマーに入国できる。(パスポートを預けるなどの多少の手続きが必要)
実際に、Gateの役人に尋ねてみたが、ミャンマーの方からは出来ないようだ。(これもある時期は出来るとか、色々さまざま変わるようである)
G&Gに頼まれていたので、タチレイにあるホテル6,7軒リサーチしたが、どこもタイバーツでの支払い。電話番号もタイ国の番号(66)とミャンマーの電話(95)を併用している。ほとんどのホテルがタイ人オーナーのようである。
しかも驚くなかれ、停電がない。ヤンゴンでは、毎日の停電に悩まされているので驚いた。多分タイ側から送電線を引いているのだろう。何せ河1本で隣国タイである。
町はまるで建物をはじめタイの一地方都市である。通貨もバーツである。1000人いるというオートバイタクシーは、かろうじてミャンマーksも受け取ってくれたが、市場もタイバーツが主流。商品もタイ製品のオンパレード。 2006年の暮れに行った。中国との国境の町ムセと、2大国境貿易の町になっている。
2009年にモーラミャイン・パーアンなど南の方を訪れ、やはりタイとの国境貿易の町であるミヤワディに行きたかったが、ここは外国人は入域出来なかった。タチレイの話に戻る。 それで、タイ側メーサイから入ってきた外国人は、タチレイのみを見て「ミャンマーって、タイと全く同じ」という印象を持つと思う。
町にはこれといって景勝地があるわけではない。ヤンゴンにあるシュエダゴンパゴダと同じ名前の金色のパゴダが丘の上にそびえている。後マンダレーにあるマハムニパゴダと同じ名前のパゴダもあった。
車も多く活気がある町で、シャン州では、州都のタウンジーやラショーなどより町はるかに大きい。同じ国境の町ムセよりも大きい印象を受けた。
国境の町タチレイ①
オートバイタクシーの後部座席から撮影。シュエダゴンパゴダ。
まるでタイの地方都市とそっくりタチレイの町並み。
海抜1200米のチャイントンから、バスに乗ってタチレイまで4時間半かかった。車で行くと3時間でいける距離だが、2回休憩が入り、4回くらい小さな町に着くたびに、スペヤーと呼ばれる車掌が各事務所に乗客名簿のコピーを提出していて、時間がかかった。
バスは結構ちゃんとした大型バスで、出発時間はチャイントンからの午前8時と、正午の2本のみ。出発2日前に朝の座席を購入していたが、外国人はイミグレーションの手続きがあるので、1時間前に来てくださいといわれ、そうなると6時起床で行かねばならないので、翌日に正午のほうに変えてもらった。
ローカルの料金の2倍1万ks支払った。車掌が近くにあるイミグレーション事務所で代行してくれるので、自分は近所のサテンでお茶していた(バスチケット イミグレーションともにサンユエゲストハウスの斜め前にある)
チャイントンの温泉のことを書いたが、ここに行くのに小さな橋を越える。警察か?軍人?が詰め所にいて、オートバイタクシーで行ってるのだが、ドライバーも客も歩かなければならない。何を警戒しているのだろうか? 又、この橋は午後6時から午前6時まで閉鎖される。したがって、温泉は、夕方5時半くらいまでの営業になるだろう。
バスでチャイントンを出た時も、道に大きな鉄条門があって、道路は午後8時から午前8時まで完全に閉鎖されているようだ。そんな中タチレイに到着した。チャイントンに比べ暑い。
避暑地チャイントン②
ラフー族の村。わりに低地の村で、大きなキリスト教会があり、若い娘さんなどは民族衣装を着ていない。
アカ族 チャイントンの市場で見かけた。他にも市場ではたくさんの民族の人たちに会うことが出来る。
エン族の村長の妻。コーン(噛みタバコ)の長年の習慣で、歯も唇も黒くなっている女性が多い。
エン族の集落。もちろん電気は来ていない。
2日目の夜、激しい雨と落雷が2時間も続いた。山に囲まれたこのチャイントン全体を震わす、実際木造で出来ているホテルが地震のように揺れていた。
3日目は快晴であった。7年前にも行ったことがあるミャ・シュエ・イー温泉に行った。温泉はこれまで、インレー湖、コータウン、ラショー、ダウェーなどでも入ったことがあるが、ここの温泉が一番気に入っている。
4日目は、トレッキングガイド雇って、ラフー族、アカ族、エン(イン)族の村をめぐった。エン族の村長の家の壁に「日本のグループツアーで初めてこの村を訪れた**グループ」と総勢10名くらいの名前を書いた紙が貼ってあった。
5日目は、ゆったりと小さな静かな町を歩きまわって、午後は読書で過ごした。インレー湖がすごい人気になっているが、チャイントンはまだまだ観光ずれしてなくて、静かでのんびりしていて、私は勝手に「ミャンマーのスイス」と呼んでいる。インレーで失われつつある「豊かな田舎」がここチャイントンにはまだまだ残っていると感じた。
避暑地チャイントン① (英語表記KENGTUNG)
ナントウン湖 チャイントンで一番の景勝。小高い丘の上に立像の仏像が湖を目指して指差している。マンダレーヒルに立つ仏像のぱくりと思われる。
白壁にいい色合いの瓦、素敵な時代がかった家が多い。
それらの家の屋根に使われている出来立ての瓦。
ヤンゴンの暑さを逃れて、チャイントン5泊タチレイ2泊の旅に行ってきた。(2010年 3月29日~4月5日)G&G旅行社に無理を言って、とにかく直ぐにエアーチケットを予約してくれと頼んで3日、キャンセル待ちのチケットが取れて、思い立って3日で急遽旅に行くことにした。
チャイントンへの飛行機は、ヤンゴン→ヘーホーここからマンダレー→タチレイ→チャントンと各駅停車のローカル線で4時間半かかった。
チャイントンは前日に雨が降ったそうで、ひんやりと涼しい。ヤンゴンでは連日猛暑と停電が続いていることを思うと、同じミャンマー国内なのにコウも違うものかと驚きを覚えた。
チャイントンは実は7年前にも1度来たことがある。町を歩くと、タイ風の華麗な建物が増えてきている。
つぼ等の焼き物を作ってるという工房(ただの民家)が4,5軒ある地区に行った。陶器を期待して行ったが素焼きのつぼであった。ヤンゴンから河を越えダラー地区から40分のトンテイでも同じような物を見ることが出来るので、ガイドに直ぐに次に行くように言ってる時だった。
これが「かわら」ですと素焼きの小さな板状のものを示しされた。チャイントンの緑に映える白壁の家々の屋根が素敵な色合いで、アレは木の幹の皮かなんかで出来てるのかしらと以前から思っていた疑問が解消した。
瓦は出来立てはレイガ色している(レンガと同じ材料工法で作るので、同じで当たり前なんだが)、それが屋根に葺かれて、雨風に打たれて1年もすると、あの素敵な濃い茶褐色の瓦の風合いになるのだ。
ミャンマーで一番美しい町はどこでしょう?
タウンドゥインヂーからネーピドゥに向かう、旧街道。並木道が続く。
マグエ(マグエ管区)から山越えしてネーピドゥ(マンダレー管区)に行く、山中 バイオエネルーギーに使われる植物(ジェッスーピン)が植えられていた。
マグエからネーピドゥまで鉄道でもいけるが、1日1本しか動いていない。
立ち並ぶホテルのような公務員宿舎。
ヤンゴンでも見たことがないような近代的なガソリンスタンド
大きなショッピングモール 食料品 衣料品 バッグ 化粧品 レストラン 美容院 2Fにはゲームセンター・映画館まである。
修復中の巨大パゴダがあったタウンドゥインヂーからネーピドゥまでは、なだらかな低い山を少し上っては少し下り、だらだらと右に左に回りながら4時間山中をジープで巡りながらたどり着いた。
マグウェからだと西から東にネーピドゥまで6時間の行程である。しかし、普通 ヤンゴンからネーピドへは車やバス、鉄道で行く場合は、マンダレー街道を行くだろう。もちろん、飛行機が一番便利である。
今 ミャンマー好きの方に質問をしてみたい。「ミャンマーで一番きれいな町はどこか?」
普通、ピンウールイン(マンダレー管区)とか名前が挙がるだろう。ミッチナー(カチン州)もチャイントン(シャン州)も街中に花があふれなかなかきれいな町だった。しかし、新しく出来上がった、全く人工の町ネーピドウの美しさは何なのだろうか?
まるで外国に来たようである。公務員や軍で働く人たちの宿舎は4階建ての瀟洒なホテルのような建物、道路は8車線しかも、ミャンマーではここでしか見られないほど、中央分離帯に近代的な街灯が果てしなく立ち並んでいる。アメリカ映画でも見ているようである。
大きなショッピングモールの中には美容院、2階には映画館もあった。大きな公園、博物館、シュエダゴンパゴダに似せた黄金のパゴダ。(本物よりわずか4,5センチ高いとか)更にスケートリンクまで出来るとジャーナルには出ていたが。アイスではなくて、ローラースケート場だろう。しかし、なんとなく全体として殺伐とした人工的な印象はぬぐえない。
ただぴろい町でタクシーもない。車かオートバイがないと生活ができない町である。旧市街 ネーピドゥと名が変わる前のピンマナーに入ってゆくと、ミャンマーのどの町でも見られる猥雑感や、ごみごみした小さな建物を見て少しほっとした。
ネーピドゥのホテルは、ホテルゾーンというところに一箇所に集められていて、ピンマナーにある旧来のホテルには外国人は宿泊できないこともわかった。
それで、町の人にホテルゾーンのホテルはいくら位するのか聞くと、最低90ドルから120ドルというので、ネーピドゥでの宿泊をあきらめて、隣町まで車を飛ばし、5ドルの出来たばかりのゲストハウスに泊まった。
ヤンゴンに戻ってから、ネーピドゥにも40ドルクラスのホテルがあることを教えられたが、あのドアがよく閉まらなかった5ドルの部屋も忘れがたい。
その隣町から、ジープで10時間くらいかかってヤンゴンに戻ってきた。今年初めての5泊6日の旅が終わった。(2010年 1月)
☆G&Gのスタッフからの注意 今現在 ネーピドゥは観光の入域許可が下りません。バスや車で通過する事は可能です。
なぞの巨大パゴダ
カンドーヂ湖でつり
ヤンゴンからマグエまでバスで、13時間。そこから友人のジープで、東に1時間半でベイタノー遺跡。そしてさらに30分で、 タウンドゥインヂーという古い町についた。町の名前は「山に囲まれたその中」という意味を持つ。この町に修復中(2012年完成予定)の巨大パゴダがあった。
町の名前自体が、「地球の歩き方」にも「lonely planet」にも記載されていない。
このパゴダは、正式名アウンミン・ゼーヤーミャッヂー・ゼーティであるが、町の人はヤカインパゴダと呼んでいる。
元々のパゴダ先端
完成模型
ヤカインパゴダ
歴史的にも規模的にもミャンマー有数のパゴダである。パガンのものより大きいし古い。年代は9世紀か?
パゴダの事を紹介したパネルがあったので、読んでみた。完成年度が1373年になっている。これはビルマの年号で書かれているので、1373年に639年を足して西暦2012年になる。
同じように建立された191年は、西暦に直すと830年ということは、パガンにあるパゴダ群(11世紀から13世紀)よりも古いパゴダということになる。
高さは、252ペイ(1ペイは1Feet) 75.6メートルになる。パガンで一番高いダヌービュパゴダが60メーター、2番目のゴードパリンパゴダ55メートルである。
歴史的にも、大きさ的にもミャンマー有数のパゴダになると思う。(ミャンマーで一番高いパゴダは、パゴーのシュエモードー・パゴダで114メートル。ミャンマーで一番有名なシュエダゴンパゴダ99メートル)
後先端の部分を残して修復がかなり進んでいる。ヤカイン族の姫様が、(山ひとつ西に行けばヤカイン州)
このタウンドゥインヂーの豪族に嫁ぎ、寂しくないように高いパゴダから故郷のヤカインが眺められるようにと、姫様の父王が建造させたという。
偶然立ち寄って15分20分間で修復中のパゴダに登り、修復現場の役人にあわただしく話を聞いたので、多少間違いがあるかもしれないが、相当古いヤカイン族のパゴダである事は確かだと思う。
カンドーヂ湖
その後、タウンドゥインヂーの町を車で1周した。カンドーヂ湖とヤンゴンにも王族が造った湖があるが、同じ名前の湖? 池があった。木製の風雅な太鼓橋があり、のんびり釣りをしている人々がいた。
そしてこの古い町からネーピードゥまでは、なだらかな低い山を、少し上っては少し下右に左に回りながら4時間山中をジープで巡りながらたどり着いた。
マグウェからだと、ネーピードゥまで6時間の行程である。
マグウェ
鬼のレリーフシャン様式のジャンドーヤ・パゴダ
シュエセドー(2009年10月)
シュエセドー 幻の町 (2010年 1月)
よほどの物好きでない限り、マグウェまで足を伸ばす人はいないだろうが、、宿泊したホテルには、フランス人の女性2名と、オーストラリア人の若い男子3名が、翌日車をチャーターして一緒にパガンまで行くと言っていた。、
マグウェの川向こう(ミャンマーNO1の大河エーヤーワディ河に架かるミャンマーで2番目に長いマグエ橋でミンブーと結ばれている)ミンブーには古いパゴダガたくさんあり、町の歴史の深さを物語っている。ナガープワッ(竜の地)と言われる、北海道にある昭和新山までは行かないが、マグマで押し上げられた灰色の丘もある。
ミンブーの北プインピューに、ジャウンドーヤというシャン様式の古いパゴダがある。このあたりまでパガン時代から稲作が盛んで、エーヤーワディ河沿いに南下したこの地帯と、北はミンジャンの稲作地帯、この北と南の稲作地帯(王族や僧院の荘園)の中間に位置するパガンに都を定めたと大野徹先生の説である。
*「なぞの仏教王国 パガン」大野徹著 NHKBOOK
前回(2009年10月)も今回(2010年1月)もマグエまでは、1人でバスで来た。13時間くらいかかっただろうか? 2009年8月に行ったマンダレーへのバスがキンキンに冷えたバスだったので、冷房対策で靴下やジャンバーの用意もして来ていたが、マグエへのバスは25年位前の日本の中古バスで、冷房はとうに壊れていた。夕方5時出発の深夜バス(長距離のバスは普通夜走行する)で、途中3回ほど休憩が入り、トイレや軽食を取ることもできる。 なので長距離バスに乗ると3,4時間に一度は起こされるので、熟睡はできない。
マグエで友人(日本人男性)とお供のビルマ人2名と合流し、ヤンゴンに戻るまで友人が購入したばかりのダゴンエースというジープで行動した。
ミャンマー人が一生のうちに一度は行きたいシュエセッドー・パゴダも、前回10月には無かった川原に幻の町が出現していた。
以前祭りは3月と聞いていたので、何も期待しないで友人が行きたいというので同行しただけだったが、実は祭りは1月17日から5月まで開催されるとかで、「幻の町」が急ピッチで建造されていた。清流の砂と石ころ以外は何も無い川原が1週間で町に変身する。すでに来ている参拝者もいた。
祭り期間中は1万人の町になるという。長さ12メートルほどの橋も4箇所すでに造られていた。
そして祭りが終わるとすべて取り壊される。故に期間限定の「幻の町」といわれる所以である。
きちんとした計画もしないで行った旅だったが、思いがけず収穫の多いものになった。
ベイタノー遺跡
ベイタノーの遺跡のすぐ近くでは、牛の市が開かれていて、大きな牛は25万ks(25000円)で売り買いされていた。
今回のマグウェからネーピドゥを回る旅の中で、目玉というか目的は、ビルマ族がこのミャンマーという土地に出現する以前に栄えたピュー族の遺跡ベイタノー(2世紀から4世紀)に行くことだった。
ピーと言う町にもピュー族のタイェキタヤ遺跡があるが、こちらはずいぶん前に2回行ったことがある。ベイタノー遺跡には、新しく博物館も建てられていて、外国人料金5ドルを支払って館内を30分くらい見て回った。入場者名簿にちょうど1年前に日本人女性の名前が書かれていた。
話は少し変わるが、(2010年3月10日頃) 衛星放送で中国の「大理」を紹介していた。1200年前に南ショウ国の都だったと。このナンショウ国が9世紀に南下してミャンマーに攻めてきて、滅ぼしたのがピュー族の城塞都市とモン族の都であるといわれている。
しかし、13世紀にやって来た元寇(モンゴル)もそうであったが、このナンショウも、長居はせずに自国に早々と戻って行った。今の昆明にピュー族の捕虜3000人を連れていったという。
遠い昔、騎馬民族のビルマ族は、そもそもナンショう軍の斥候セッコウ(敵の地形や軍備の情報を調べる役目)や先導を担っていたという。 それで、9世紀後半ナンショウが引き上げて政治的空白地帯になったミャンマー北部から中部にかけて、先に定着したシャン族を避けて南下して来たといわれている。
ベイタノーの博物館には、出土したコインの写真はあるが、実物はない。つぼや土器も日本の縄文時代のものと大差がない、日干し煉瓦でできた城壁、ピュー族はどんな民族で宗教は何だったんだろうか? どんな衣装を着て何を食べていたのだろうか?興味は尽きない。
2009年の12月に行ったカヤー州の山岳地帯の民族にも、元ピュー族だと自称する民族がいるという。この自称ピュー族の末裔というのは、日本の平家の落ち人伝説のように、この国各地に根強く残っている。
この旅から戻ってきた時に、ビルマ族の友人の一人が、もうじき「ピュー族とその文化」という本が出版されるというニュースを教えてくれた。一般のミャンマー人もピュー族については、ほとんど何も知らない。この本が出たら早速辞書を引き引きゆっくり読んでみようと思う。